リュミエールを待ちながら リュミエールを待ちながら

シネフィル見習いの雑記
新旧問わず映画作品を批評的に考察したい
本や動画等の紹介もするかも

『赤死病の仮面』

『赤死病の仮面(原題:The Masque of the Red Death)』, エドガー・アラン・ポー著, 1842年

 その作家の影響力は、広い太平洋を越えて極東の島国の小説家に江戸川乱歩というペンネームを与えたほど甚大です。アメリカ恐怖小説家の雄、エドガー・アラン・ポー原作『赤死病の仮面』が今回のテーマです。とは言っても、文芸批評ではなく、映像化作品のご紹介です。ちなみに、ロジャー・コーマン監督作ではありません。


あらすじ

 ある時代、ある国で、赤死病という感染症が流行り、多くの死者が出ていました。その国の王様は家臣や友人と城に閉じこもり厳戒体制を敷きました。安全な城内で仮面舞踏会をしていると、どこからともなく不審な仮面の人物が入ってきて…
 と、このように赤死病という架空の感染症を擬人化し、その恐怖を描いた物語です。トップに掲載しました画像はハリー・クラークによって描かれた挿絵です。いかにも死神らしい、おぞましい外見をしていますね。
 ちなみに赤死病とは、その名前から黒死病(ペスト)を元にしいるように思われますが、本作の執筆当時に猛威をふるっていたコレラや結核に影響を受けていると言われています。ただし出典はWikipediaです。申し訳ありません。

 それでは本題の映像作品です。1969年にユーゴスラヴィアのアニメーター、パヴァオ・シュタルテルとブランコ・ラントヴィチによって製作されました。そうです、アニメーション作品です。両者は画家・デザイナーでもあったので、映像化した作品では油絵のような重厚な質感がいっそう恐怖を引き立てています。どうぞご覧ください。





 いかがでしょうか。まるで錆びた金属のような、荒涼とした重みのある赤褐色の使い方。筆の跡がはっきりと見て取れる荒々しいタッチ。本作が製作されたのは20世紀半ばですが、その作風からは1800年代終盤からおこった世紀末美術の潮流を意識して描かれたことがうかがい知れます。

 それでは問題です。原作との相違があったことにお気づきいただけましたでしょうか。
 正解は、城内へ侵入してくる謎の人物が美女として描かれているのです。エドガー・アラン・ポー作品の挿絵を多く手がけた世紀末美術を代表するイラストレーター、オーブリー・ビアズリーが描いた『赤死病の仮面』も、やはり擬人化された病魔は妖艶な美女として表現されています。


 これは恐らく、国民が恐ろしい疫病に苦しんでいる時運を全く顧みない、横柄な君主に対する寓意が含まれているのではないでしょうか。不義の男を誑かすハニートラップは死に至る病、などと書くととても示唆に富む話になりそうですが、エドガー・アラン・ポー本人は文学における教訓主義に対して否定的な立場を取っていたようで、これをアレゴリーと解釈するのは勇み足になるかもしれません。ここは大人しく、知識や教養をかなぐり捨てて映像的で耽美な文学世界へ身を委ねるのが正しい態度かもしれません。

アレックスとKKKの意外な関係 - 『ヤバい経済学』

スティーヴン・レヴィット/スティーヴン・ダブナー著『ヤバい経済学─悪ガキ教授が世の裏側を探検する(原題:Freakonomics Intl Pb: A Rogue Economist Explores the Hidden Side of Everything)』, 望月衛訳, 東洋経済新報社, 2006年

もはや説明不要なほどのベストセラー。2010年にはアレックス・ギブニー監督により映画化もされた、センセーショナルなエコノミクス論です。表向きは経済学を謳いながらも、中絶と犯罪発生率の関係や相撲の八百長のインセンティブなど、既存の枠組みにとらわれない自由な発想と斬新な切り口での研究は話題を呼び、アメリカでは400万部の売り上げを記録しました。
そんな有名作品をなぜ今さら取りあげるのかと申しますと、実はタイトルの通り、本書のある個所が映画『時計じかけのオレンジ』(スタンリー・キューブリック監督, 1971年)と奇妙な一致をしめしていることを発見したためです。それはKKKと不良少年アレックスです。アレックスとは言わずと知れた『時計じかけのオレンジ』の主人公、近未来社会で暴力とセックスに明け暮れる問題児です。そしてKKKは南北戦争後に設立された白人至上主義団体です。時代も思想もまったく接点がないのではないか?その通り、実際何の関係もありません。というのも、これはあくまで筆者が直感的に発見した類似点ですので、こういう見方もあるのか、というお気軽な姿勢でお読みいただけると嬉しいです。


1.白い衣装

KKKと聞けば、この悪名高い白装束を想起する方も多いでしょう。このコスチュームは、南北戦争の退役軍人ネイサン・ベッドフォード・フォレストが行った、白装束を着て黒人居住区を練り歩くという嫌がらせに端を発します。当初は単に黒人たちを脅かすだけのつもりだったようですが、そのあまりに威圧的な外観に恐れをなした黒人は、次々に家の中へと逃げ込んでいったそうです。これに味をしめたフォレストは次第に過激な暴力行為に及ぶようになり、黒人差別主義者の仲間と衣装を統一し、やがて巨大な組織となっていったのです。顔をすっぽりと覆ってしまうマスクを集団でつけるという行為は、身分を隠すという目的のみならず、相手に恐怖を植え付けるという意味でも非常に有用であると言えるでしょう。



それでは『時計じかけのオレンジ』のアレックスたちの服装を見てみましょう。


シャツ、パンツ、サスペンダー。見事に白で統一されています。また黒いシルクハットも被っています。紳士的なトラッドスタイルがかえって不気味さを醸し出していますね。KKKと同じく白を基調としていること、メンバー全員を同じ服装で統一して組織であることを示す態度は、暴行を加える相手に対して抵抗する意志を根底から奪い去ってしまうほどの威厳があります。心理的に相手を追い詰めるという目的では、両者のコシュチュームは極めて合理的であると言えるでしょう。
 『時計じかけのオレンジ』においてKKKのマスクに呼応するアイテムは、アレックスたちが暴力行為をはたらくシーンで身につけている不気味な仮面がそれにあたります。これはKKKのものよりさらに進化して、暴力的な意味合いが強く出ています。その仮面が以下の画像のものですが、鼻の部分が天狗のように長く突き出ています。そして後ろでは仲間が女性を凌辱しています。これは言うまでもなく、男性性の持つ暴力の顕在化であり、相手を性的に支配しようとする残忍なファルスです。両組織の衣装に見られる残虐性は、暴力を外観で表現することにより、相手を恐怖に陥れ無力化し蹂躙してしまう点に表れています。




2.独特な言葉

 アレックスたちをとりわけ奇特に見せているのは、彼らが仲間内で用いる「ミルク・プラス」や「ウルトラヴァイオレンス」といった未来言語、ナッドサット言葉です。
 ナッドサット言葉とは、翻字したロシア語の接尾辞を取り込んだ英語で、小説の原作者であり言語学者でもあったアンソニー・ヴァージェスが考案しました。ナッドサッド(Nadsad)はロシア語で10を表す数詞接尾辞ナッツァチを翻字したもので、簡単に言うと英単語の語尾をロシア語のように変化させた言葉をアレックスたちは使っているのですが、これには通常の言語のような規則性があるわけではなく、変化は無作為に行われているそうです。そのため、ナッドサッドは―人工言語や方言としての性格も勿論ありますが―隠語に近い性質を持っているようです。つまり合言葉です。
 秘密組織、特にフィクションの世界では合言葉が必要不可欠と言っても過言ではないでしょう。そして実在する組織KKKでも、アレックスたちのナッドサッドと極めて似た合言葉が使われていたのです。


 『ヤバい経済学』によると、20世紀初頭、アトランタにステットソン・ケネディという男がいました。彼は白人であり、南部出身者です。この特徴だけを見ると彼は典型的な黒人差別主義者のように思えますが、実は魔逆でKKKを心底憎んでいたそうです。 理由は彼の乳母である黒人女性フロが、KKKにより暴行され、凌辱されたためです。当時のKKKは政治・経済界の大物とも手を組んでいて、まさに白人によるテロリズム、社会構造の頂点に君臨する巨悪でした。だからこそケネディは、何とかしてその牙城を崩そうと奔走することになります。彼がいかにしてKKKの内情を調べ上げたか、そのノウハウを自伝『KKKのフードを剥ぐ』で明かしています。ちなみにこの本、自伝とは名ばかりで、ケネディには打倒KKKの志を同じくする協力者ジョン・ブラウンという男がいたのですが、その協力者であるブラウンが行った偵察までもケデディは自分の手柄であるかのように記述しているため、果たしてどこからどこまでが「自伝」なのか、という点に関しては曖昧である、という事実は明かしておかなければならないでしょう。


 さて、ケネディ―ブラウンかもしれませんが―がKKKという組織の実情を暴く上で実際に何をしたのでしょう。それはKKKのメンバーになりすまして会合に出席するという、スパイものではお約束の諜報活動です。その実地調査の中で、ケネディはKKK組織内である奇妙な風習があったことを明かしています。合言葉です。その部分を『ヤバい経済学』の一説から引用しました。

たとえば、いろんな言葉の頭に「Kl」をつけるのがKKKの慣わしだった。2人のクラクスマンが地元のクラヴァーン(Klavern=tavern、支部)でクランヴァセンション(Klonversation=conversation、話)をした、なんて調子だ。(p.73)


こういった、まるで冗談であるかのような会話を、メンバーたちはいたって真面目に行っていたというのです。そしてこの出来の悪いコントのようなKKKの内部事情が、後々彼らの組織の空中分解を引き起こす大きな鍵となるのです。その話は次項にて。 ここで重要なポイントは、KKKの合言葉は「Kl」を接頭辞として変化させている、きわまて隠語的性格の強い言語であるという点です。
 それでは再び『時計じかけのオレンジ』のナッドサッドに登場してもらいましょう。既にお気づきかもしれませんが、接頭あるいは接尾詞を用いた人口言語を使用しているという点が彼らの共通点なのです。



3.悪党の末路

 アレックスの暴力に明け暮れる日々にも、ついに終わりが訪れます。仲間の裏切りにより逮捕された彼は、刑務所において実験的な人格更生方法であるルドヴィゴ療法の被験者となります。ルドヴィゴ療法とは、被験者に嘔吐感を催す薬を投与した後、椅子に固定し残虐な映像を延々と見せることで、暴力行為=吐き気という条件反射を植え付ける、人間をパブロフの犬にしてしまう恐ろしい荒療治です。以後彼は、それまで散々手を染めていた悪事がまったく出来なくなる体質となります。しかしそれは彼に善意が宿ったわけではなく、暴力に対する生理的嫌悪感からの本能的回避がそうさせているだけでした。
 それはそうと、アレックスの人格改造とKKKの衰退に一体何の関係があるのか、という至極真っ当な疑問を抱かれるのはもっともです。しかし、ここにもアレックスとKKKには奇妙な一致が見られるのです。
 ケネディは何とかしてKKKを撲滅するべく様々な内情を探ってはいましたが、どれも目立った効果はありませんでした。KKKが政府機関と癒着していた事実を鑑みれば当然であったかもしれません。そんな彼の身にある転機が訪れます。その出来事について『ヤバい経済学』にはこのように記されています。


男の子たちがスパイごっこみたいなことをしていて、たわいのない秘密の合言葉を言い合っているのを見かけて思った。KKKの合言葉やなんかの秘密を国中の子供たちにばら撒いたらすごくないか?秘密結社の牙を抜くのに、結社の最高機密をガキ扱いする―さらに公にする―よりもうまいやり方なんてあるだろうか?(p.77)


 意外に思われるかもしれませんが、当時アメリカで起こった黒人に対するリンリ事件に占めるKKKの割合はそれほど高くありません。それでもなぜ彼らが恐怖の権化のような存在でいられたかというと、その威圧的な外見に加え、徹底した秘密主義を貫いていたためです。一度見せしめ的なリンチ行為―ビリー・ホリデイの『奇妙な果実』が有名です―を行っておけば、それ以降黒人は恐れをなし、KKKに抗おうとはしなくなります。そうしてKKKはのうのうと翼を広げてきたのです。しかしその実態を、ケネディは地道な諜報活動によりつかんでいました。
 彼は組織の中で実際に行われている会合の本質―捌け口を求める哀れな男たちの慰みものであるということ―を知っていたため、この事実を大衆に暴露すれば、組織の牙城は瞬く間に崩れ落ちると踏んだのです。しかしどうやってその情報を流布させるのでしょうか?
 それが当時、晩ご飯時に放送されていたラジオ番組『スーパーマンの冒険』です。ケネディがこの企画を持ち込むと、プロデューサーは快諾しました。1940年代後半、ヒトラーやムッソリーニといった民主主義の敵を失ったスーパーマンは、それに代わる新しい敵を必要としていました。ラジオのプロデューサーたちはKKKの実情―単語の頭に「Kl」をつけるといったひどく幼稚な慣習など―を、面白おかしく台本に仕上げました。それらは数回に分けてラジオ放送され、これが大ヒット。KKKは全米の笑い物となったのです。これにより組織は集会のメンバー参加率低下や入団希望者の激減などの現象に見舞われ、着実に弱体化していきました。ケネディの目論見は見事に成功したのです。


アレックスとKKK、両者を衰退させたものはなんだったのでしょう。それは一つに、それまでの自身の行いを再現したストーリーです。もう一つは、劇場のスクリーン、ラジオといった大衆娯楽向けのメディアが使用されたという点です。
 第二次世界大戦においてナチ党は、映画やラジオといったマスメディアをプロパガンダに利用しました。その効果は絶大で、例えばレニ・リーフェンシュタール監督によるプロパガンダ映画『意志の勝利』は、その映像・構成の完成度の高さから今日に至ってもなお、マスターピースとしてその地位を不動のものとしています。それは当時の文化人たちにとって、文明が悪の枢軸に侵犯されるという甚大な侮辱行為であったに違いありません。だからこそ、戦争が終わった世界ではマスメディアを平和利用する機運が高まっていたと見るべきでしょうし、またそれらによって反社会的な集団を糾弾することができれば、それはまさに文明の、そしてヒューマニズムの勝利として歴史に偉大な1ページを刻むことになるでしょう。アンソニー・バージェスとステットソン・ケネディが夢見ていたもの、それは人文主義の勝利であったのかもしれませんね。

男性のロマンを映像化したサービス精神の塊 - 『エンジェルウォーズ』

『エンジェル ウォーズ(原題:Sucker Punch)』, ザック・スナイダー監督, 2011年



人はみな大人になるにつれ子供の頃の夢を忘れていくものですが、稀にその夢を持ち続け、いつか大輪の花を咲かせる人もいます。きっとそういう人がアーティストと呼ばれるのではないでしょうか。『エンジェル ウォーズ』の監督、ザック・スナイダーもそんな童心を持ちつづけた人物の一人です。

今回取り上げる『エンジェル ウォーズ』、公開当時から一方では絶賛、他方では酷評と賛否がはっきり分かれていたので大変気になっていました。というのも貼付しましたポスターの通り、監督の趣味を前面に押し出した作風となっており、これに地雷臭を感じて敬遠した観客層がいたため、興業的にはあまり振るわなかったと伺っております。この手の作風が好きそうなタランティーノ監督でさえ、2011年の映画ランキングでワーストに本作を挙げています。

冒頭からこんなことを書いてしまうとまるでネガティブキャンペーンですが、ご安心ください。ちゃんと見所のある作品です。レンタルして観ようかどうか迷っている方にとって、本稿が何かしらのきっかけになれれば幸いです。



1.ロボトミー手術の恐怖と闘う美少女達

物語はベイビードールが誤って妹を殺害してしまい、精神病院へ収監される場面から始まります。そこでは少女たちが踊り子、と言うよりもストリッパーに近いダンスで客を喜ばせることを強いられていました。彼女たちは結束して施設からの脱出の計画を立て、そのために必要なアイテムを集めていくことになります。しかし支配人であるブルーに企みを見破られ、リーダー核のスイートピーは計画の中止を提案すしますが…

と、ひどくザックリと述べましたが、実は本作で展開されるストーリーの大部分がベイビードールの妄想であり、それゆえアイテムを集めいくシーンがまるでRPGゲームのように美麗な映像が繰り広げられます。プロットを正確に理解しようとすると構造が大変複雑であることに気がつくでしょう。詳しい物語解析につきましてはk.onoderaさんの映画批評ブログに掲載されていますので、横着ながらトラックバックさせていただきます。



2.ファンに男性が多い理由は?

これは私のイメージなのですが、本作を賞賛されている方は比較的男性が多いように感じました。なぜこうも男性から支持を得られるのか、その原因をいくつか考えてみました。


ⅰ.中二病的妄想をすべて映像化したファンサービス

ベイビードールとその仲間たちは脱出というミッションをクリアするため、過酷で過激な妄想世界で戦闘を繰り広げます。その中には巨神兵あり、ゾンビあり、ドラゴンありと、監督がアニメ・ゲームを大好きであることがよくわかる舞台設定になっています。ストーリー上、これらの映像はベイビードールが妄想していることになっていますが、どう考えてもザック・スナイダー本人の妄想を映像化しています。多くの映画作家は年をとるにつれ、気取ってしまったり恥ずかしがったりしてこういったテーマは撮らないものですが、その点スナイダーは自分の欲望に正直で、「俺はこういう映像を撮りたいんだ!」という愚直なまでの情熱が感じられます。こういう自分の創作意欲に対して直向きな姿勢は、作家として大変評価できるところだと筆者は考えています。


Ⅱ.BGMの選曲センス

先ほど述べましたように戦闘シーンが非常にカッコいいのですが、そこで流れる音楽もまたカッコいいのです。というのも、本作のサウンドトラックは以下のようになっています。



1. Sweet Dreams (Are Made Of This) (Emily Browning)
2. Army Of Me (Sucker Punch Remix) (Bjork featuring Skunk Anansie)
3. White Rabbit (Emiliana Torrini)
4. I Want It All/We Will Rock You (Mash up) (Queen with Armageddon aka Geddy)
5. Search And Destroy (Skunk Anansie)
6. Tomorrow Never Knows (Alison Mosshart and Carla Azar)
7. Where Is My Mind? (Yoav featuring Emily Browning)
8. Asleep (Emily Browning)
9. Love Is The Drug (Carla Gugino and Oscar Isaac)


まるでおもちゃ箱をひっくり返したように、ひたすら監督が好きな音楽を引っ張り出してきたような選曲ですね。中学生が好きな洋楽をいっしょくたにして一枚のCDに焼いた「俺ベスト」に近い感覚だと思います。


特に印象的だったのは映画『ファイト・クラブ』(デヴィッド・フィンチャー監督, 1999年)のエンディングで使用された”Where Is My Mind?”にベイビードールを演じたエミリー・ブラウニングがボーカルで参加したカバー曲です。本家よりもしっとりとした仕上がりになっています。






『ファイト・クラブ』のように特に深刻な思想を提示せず、ただカッコいいという理由で本曲を選ぶセンスも結構好きだったりします。




Ⅲ.妄想による冒険、その正体

とにかくド派手な戦闘シーンが売りの本作ですが、その戦闘というのは脱出アイテムを入手するためにベイビードールが踊るシーンに妄想として挿入されていて、実際に行っているのは地図やライターを盗むといった極めて些細なことなのです。この、実は単なるイタズラレベルの行動にダイナミズムを与えている点にこそ、本作の魅力があるのではないでしょうか。男の子が小さい頃にしていた探検ごっこに非常に似た感覚を覚えるためです。
大きな木を登る、川を飛び越えるといった大人から見れば大したことないことでも、子供には大冒険に感じられるものです。勇気が必要な行動も、仲間と一緒ならわくわくする。そういった、誰もが幼い頃に感じた躍動感をあのシーンは思い起こしてくれます。そういう意味では、本作は『スタンド・バイ・ミー』の系列に属する作品なのかもしれません。男性から人気がある秘訣はきっとここにあるのでしょう。


『エンジェル ウォーズ』が男性を魅了する理由を語ってまいりましたが、最後に彼女たちの衣装について言及しないわけにはいかないでしょう。
ベイビードールたちはダンサーとして客を魅了しなければなりません。なので終始セーラー服にミニスカートという煽情的な服装をしています。特に驚いたのはベイビードールが肌色のピッタリとしたニットを身に着けているシーンで、一瞬上裸なのではないかと目を疑ってしまいました。




直接的な性描写はもちろんないのですが、こういった十代の男の子が好みそうな“微エロ”を盛り込んでくるあたり、ザック・スナイダー監督はどこまでもサービス精神が旺盛であると微笑ましく思いました。

屈折した美意識が織り成す不快感 - 『ムカデ人間』

『ムカデ人間(原題:The Human Centipede)』, トム・シックス監督, 2010年


 長き映画史を振り返れば、サスペンスとマッドサイエンティストはなんて相性が良いことでしょう。『カリガリ博士』に始まり、『フランケンシュタイン』など、様々な狂人たちが己の能力の粋を集めたモノを創造したいという欲求にもとづき怪物を生み出してきました。それは映画作家の情熱と同じく、飽くなき創作意欲が成せる賜物なのかもしれません。そして時は2010年、イギリスとオランダの地において、まさに奇天烈、とんでも博士が大活躍してしまうカルト(化間違いなし)映画が産声を上げました。『ムカデ人間』です。


1.博士の異常な執着
 これまでのマッドサイエンティスト映画では人知を超えた架空の怪物が登場することが定石でしたが、本作に登場するドイツ人医師ヨーゼフ・ハイター博士の趣向は一味も二味も異なっていて、「人間を繋いでみたい」という、常人には当然ながら理解不能な野望を抱いています。というのもこの博士、かつてはシャム双生児の分離手術の名医で、人体の結合に対する関心を異常なまでに拗らせてしまった結果、今度は逆に複数の人体を結合させて一つの生命体=ムカデ人間を作るという発想に至ったわけです。どこからそんなモチベーションが発生してどう維持してきたのか、などという野暮な突っ込みを入れてしまうと途端にこの映画のテーマは瓦解してしまうので、観始めたらとにかく最後まで一気に観てしまうことがポイントです。かくしてアメリカから旅行に来ていた不幸な女性二人と威勢の良い関西弁を繰り出す日本人男性一人が犠牲となってしまいます。哀れ邪悪な博士の囚われの身となってしまった三人の運命とは?


2.作り手は“変態”か?
 実は本作、そのあまりに奇想天外かつお下劣な作風ゆえ、日本では劇場未公開だった当初からカルト映画ファンの間で話題騒然となり、ひとたび検索をかければレビューサイトが数多くヒットします。もちろん筆者もいくつかの感想を拝読したのですが、わりと多く目にとまった意見が「アイディアこそ突飛で素晴らしいが残虐性や変態性は凡庸」というものです。筆者が察するに、『ムカデ人間』なる映画を積極的に鑑賞してレビューをつける方々ですから、おそらく平素から極めて過激なゴア表現を含んだ作品をご覧になっているのではないかと存じています。それゆえ本作の直接的な流血や人体破壊描写の少なさには少々ご不満を抱いているのではないでしょうか。


 しかしながら、これに対し筆者は反論を翻したいと思っています。この映画を撮ったトム・シックスは間違いなく変態です。
そもそもなぜハイター博士がムカデ人間の創造を志したかと言えば、有能な医師である自身の技術と、彼の言うところの「完璧な生物」への憧れがあったためです。博士にとってムカデ人間は崇高な生物なのであり、それを作る能力を与えられた限られた人間にはこれを行う使命のようなものがあったのだと考えられます。つまり作劇的にハイター博士は神の代理人として見ることができるのです。


 神の如き絶対的な力を持っているのですから、無実の人間をさらってその体にメスを入れることなど彼は到底悪いことなどとは思っていません。それどころか、博士の表情からは自分だけに許された誇り高きオペであるとの自負まで感じられます。まさに変態です。


 そしてこの意識は監督の画作りにも表れています。全体的に絞りを抑えて色彩に落ち着きを持たせた格調高い画面、被写体を舐め回すように丁寧かつゆっくりと行われるパンとティルトアップ。特に印象的だったのは結合されたムカデ人間が博士の庭に連れ出されるシーンです。


3人の人間が繋がっているという点を意識して、シンメトリーを意識したとても厳格なカメラワークがなされています。こういった撮影方法、誰かに似ていると思ったら、あの完璧主義で有名な映画作家スタンリー・キューブリックでした。こんなキワモノ映画(誉め言葉です)を撮っているにもかかわらず、作り手はあたかも「崇高な芸術作品を作り出しているんだ」といういやらしい美意識を全面に押し出していて、それがショットの至る所に散見されます。まるでハイター博士自身がカメラを持って撮影しているかのような錯覚に陥りました。このねっとりと絡みつくような美しさ、完璧さへのこだわりを感じさせる撮り方は、ハイター博士の異常性を演出するために用いられたとすれば、相当優れた演出ではないでしょうか。


さて、この『ムカデ人間』にはなんと続編もあるようで、今度はなんと12人を連結させるという壮大なスケールで行われるようです。もちろん一作目では控えめでったグロテスク描写を増大させるというファンサービスもあるようです。しかし『SAW』シリーズのようにゴア表現に走るあまりサスペンス性がどんどん薄れていってしまうのではないかと筆者は危惧しているのですが、いずれにしても話題性にこと欠かない作品であることは間違いないでしょう。

『勝手にふるえてろ』

『勝手にふるえてろ』, 綿矢りさ, 文芸春秋, 2010年

本ブログにおいて初の書評です。実際のところ書評と呼べるほど立派なものではありませんが、思ったことをすべて記すとなるとそこそこの長さになったためこちらに掲載することにしました。取り扱う作品は19歳にして第130回芥川賞を受賞した綿矢りさの『勝手に震えてろ』です。
17歳の時に『インストール』で文藝賞を受賞した経歴を持ち、未公開作品も含めれば若い頃から多くの執筆活動をしていたという彼女はまさに栴檀は双葉より芳し。若くしてこれほどの高い評価を受けている作家は稀代でしょう。ではそんな彼女の作品の魅力は一体何でしょうか。


様々な役柄をこなす幅が広い役者が名優ならば、多彩な登場人物の人格を創出できる書き手もまた優れた作家と言えるでしょう。
『インストール』に収監されている短編『You can keep it.』では、同級生の女性に恋心を抱く大学一年生の青年の瑞々しい心情(少々手垢のついた言い回しですが)と儚さを見事に描き切っています。ハイティーンの女性が男性の恋心を描くというだけでも脱帽ですが、さらに凄い点は『You can keep it.』を執筆当時、彼女は高校生であったということです。まだ見ぬキャンパスライフにおいて展開される物語を、ここまで真実味を持って描き出したことは驚愕に値します。


本作『勝手にふるえてろ』では会社勤めの26歳の女性が主人公となっており、作家自身の年齢と近しい人物像です。綿矢りさはこれまでの作品の中で、内向的で覇気の無い人物像をよく登場させ、またそれを得意としてきました。本作の冒頭では、その「対人関係にやや難あり」な人物描写がより研ぎ澄まされたものになっていると感じました。


それは口語表現のリアリティです。もちろん他の作品でも綿矢りさが紡ぎだす会話はどれもリアリティに溢れていて、歯切れの良い簡潔なセリフ回しが大きな特徴になっています。
しかし本作の冒頭で主人公が見せる語り口は、これまでの趣向と異なってものになっています。冒頭の中から一パラグラフを抜粋してみましょう。


だから手に入れたその瞬間に、手ばなしに、強烈に喜ばなくちゃ意味がない。限界まで努力してやっと達成したくせに、すぐに顔をきりりとひきしめて、“さらに上を目指します”なんて、言葉だけなら志の高い人って感じでかっこいいけれど、もっともっと進化したいなんて実はただの本能なんだから、本能のまま生きすぎで、野蛮です。たるを知れ、って言いたいのかって? ちょっと違う、足らざるを知れって言いたいの。足りますか。足りません。でもいいじゃないですか、とりあえず足元を見てください、あなたは満足しないかもしれないけれど、けっこう良いものが転がっていますよ。色あせてなんかいません、まだ十分使えます。ほかの誰かにとっては十分うらやましいんじゃないですか、そおふちが欠けたマグカップ。水玉柄がかわいい。求めすぎるな、他人にも自分にも。


この一説は主人公の独白となっていますが、表記方法はきわめて口語的な性格が強いです。なぜならばこのパラグラフは、一つの台詞がとても長く、説明的であるためです。これを実際に声に出して読もうとすると、一つの分が長いため息を持たせるために始まりから終わりまで一気に
駆け抜けるような読み方になります。すると自ずと早口になることがわかります。つまりこの主人公の喋り方は早口である、ということまでがこの文章構成から読み取れることになります。


これは最近の萌えアニメの男性主人公にもよく使われる手法なのですが、一つの台詞を冗長に、説明的で早口にすることで、いわゆる「オタクっぽい」話し方を再現させているのです。アニメの場合は原作がライトノベルであることが多いので、本に書かれている圧倒的な文字量を台詞に起こした結果として長台詞が生まれるという要因も含んではいます。

筆者は『勝手にふるえてろ』の主人公の長台詞も、コミュニケーションに対する自信のなさを表現するために作家が意図的に作り出したものではないかと考えています。つまり主人公を取り囲む境遇や自信のエピソードを掘り下げることで人物描写をするのではなく、文章構成とレトリックによっておおよその性格を冒頭から説明してしまっているのです。こういった外堀を埋める手法を取らずに内面性を描き出す能力というのは、まさに豊かな文才こそがなせる業であると感服しました。

コミカルさも盛り込んだ正統派ホラー - 『スペル』

『ホステル(原題:Drag Me To Hell)』, サム・ライミ監督, 2009年

サム・ライミの名を聞くと、最近では『スパイダーマン』が挙げられるのではないでしょか。確かに大ヒットシリーズですが、忘れてはならないのは彼が『死霊のはらわた』で映画界デビューした、カルト映画の大御所であるということです。しかもホラーの。
本作以前でサム・ライミ監督がホラー映画のメガホンを取ったのは2000年に製作された『ギフト』ですので9年ぶりの“本業”とあいなったわけですが、実に素晴らしいです。VFXなどの特殊な視覚効果を取り入れたホラー映画の中でも教科書的な出来栄えではないでしょうか。その魅力をご紹介します。


ジャンルは定番と言えば定番、スティーブン・キング原作『痩せゆく男』よろしくの呪術系ホラーです。 銀行で融資を担当するクリスティンは農家出身の心優しい女性。しかし次局長のポストを狙う同僚のライバル、スチュには出世競争で水を分けられ、恋人の母親には農家の出身という理由から快く思われていません。これほど薄幸なホラー映画のヒロインがかつて存在したでしょうか。ある日、そんな彼女のもとへ一人の老婆が訪れます。見るからに不気味な老婆は住宅ローンの返済期日を延長するよう頼みに来たのですが、彼女は既に二回の延長を銀行へ申し込んでいたのでした。クリスティンは老婆の頼みをきいてあげたいのも山々ですが、当然銀行側がそんな延長を認めるはずがなく、その上クリスティンはスチュとの出世競争の真っただ中。決断力が求められるポストを争っている中で顧客に対し毅然とした態度を示せなければ昇進の道は断たれてしまいます。心を鬼にして延長の申請を断ると、老婆の態度は一変、恐ろしい形相で彼女に襲いかかり謎の呪文をかけるのでした。そこからクリスティンの悪夢が始まっていきます。


本作の何が素晴らしいかと申しますと、これは筆者が近年流行のPOV形式を採用したホラー映画を多く見ていることに起因していますが、非常に恐怖映画としてはベタな演出方法が用いられているということです。
POV形式とは「Point Of View」の略称で、登場人物の視点がカメラの視線と一致するように撮影する技法です。観客がまるで映画の世界に入り込んだような臨場感を得られる手法で、1999年に公開された『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』(ダニエル・マイリック,エドゥアルド・サンチェス監督)によってこの手法は以降のソリッド・シチュエーション・ホラーに頻繁に用いられるようになり爆発的な人気となります。
この技法の利点はその場にいるかのようなリアリティを出せるという点ですが、裏を返せばBGMやCGといった技法とは相容れないため、どうしてもビックリ箱的な脅かし方がメインとなり、画一的になりがちです。もちろんアイディア次第で素晴らしい作品にすることも可能ですが。
その点『スペル』はさすがサム・ライミ、デビュー作がホラー映画もしくはピンク映画の監督は力量があるとはよく言ったもので、彼のその例外にもれません。クリスティンに襲い来る姿なき邪悪な存在の恐怖を、迫りくるようなBGMを用いてじわじわと煽っていきます。見事な演出です。
実はこの迫りくるようなBGMとPOV形式を同時に採用して大ヒットを記録した映画があるのですがご存知でしょうか。そう、スティーブン・スピルバーグ監督の『ジョーズ』(1975年)です。この映画、よく観ていただけるとわかるのですがサメ自体がスクリーンに登場する時間はさほど多くありません。70年代はCGなどありませんでしたから、当時のパニック・アクションものを手掛けた監督たちはいかにモンスターを描くかさぞ苦心していたことでしょう。そんな中でスピルバーグが使ったアイディアが、サメの一人称視点とジョン・ウィリアムズが手掛けたあの迫りくる音楽なのです。モンスターを被写体にするのではなく観客にサメと同じ視点を与えることで、製作費を節約すると同時に臨場感を醸し出すことに成功し、かつあのBGMを挿入することで「この音楽が流れたらモンスターが出現する」という映画的文法を観客に分かりやすく提示することもできるのです。この画期的な恐怖演出により『ジョーズ』は興行的に大成功を収め、スピルバーグ監督は以後ハリウッドにおいてその地位を不動のものとしていきます。
サム・ライミ監督も音響の重要性を理解している作家であり、ホラー映画の文法を踏襲することで本作を誰でも楽しめる上質なエンターテイメント作品に仕上げています。それにしても、迫りくるようなBGMと現在流行のPOV形式を70年代に既に作品の中に取り込んでいたとは、スピルバーグ監督の手腕に改めて舌を巻くところです。



ところで、クリスティンに呪いをかける老婆の孫娘というすごい端役なのですが、この女優さんがパンキッシュな服装でとても可愛らしいのです。

ボヤナ・ノヴァコヴィッチという女優さんで1981年セルビア生まれ。最近ではジョン・エリック・ドゥードル監督の『デビル』(2011年)にも出演しています。ホラー映画には美女がつきものですが、ヒロインと敵対的な関係のクールな女性というポジションが斬新で素敵でした。

欲望渦巻く都市の惨劇 - 『ホステル』


『ホステル(原題:Hostel)』, イーライ・ロス監督, 2006年

春といえば行楽シーズン。特に学生の方は卒業旅行で大いに盛り上がる季節ではないでしょうか。憧れのヨーロッパへ足を運んでみるのもいいかもしれませんが、そんな気分を見事に吹き消してくれるのが、ゴア表現満載の血みどろソリッド・シチュエーション・ホラー、『ホステル』です。
メガホンを取ったのはホラー映画界の寵児と目される新進気鋭の映画作家、イーライ・ロス。タランティーノ監督にその作風を評価され最近では俳優業にも精を出している彼ですが、学生時代は『レザボア・ドッグス』のパロディ『レストラン・ドッグス』という、レストランの中が血まみれになるだけの映画を製作し、インテリ学生たちの中では異端児的存在だったようです。本作にもその奇怪っぷりが存分に発揮されています。

犠牲となる主人公はヨーロッパを旅するアメリカン人大学生パクストンとジョシュ。道中に出会ったアイスランド人のジョッシュ(なんと既婚者)と共に各地で足の向くまま気の向くまま、欲望を満たすべく夜の街へと繰り出していきます。というのもこの3人、人語に落ちない好色という共通点があり、それが彼らを結びつかせたとも言えるでしょう。まさに運命共同体です。そして運命を共にした彼らは当然のように、悲劇的な展開へ向かって突き進んでいきます。

スロバキアのホステルで3人が出会った美麗な受付係と、相部屋となったセクシーなヨーロッパ美女。無論彼らは鼻の下を伸ばし、一緒にスパに入り夜はクラブで踊り更け、部屋に戻れば事に及びます。まさに酒池肉林の世界。しかしこれがハニートラップでした。
お酒の中に睡眠薬を入れられ昏睡した男たちは、次々と謎の廃墟へ拉致されます。そこは狂人たちが巨大な刃物や拷問道具で人間を生きたまま解体する恐怖の館だったのです。それにしてもこの廃墟をおどろおどろしく表現する映像がすごい。OPから排水溝へ流れ落ちる血糊がアップにされたと思いきや、殺戮シーンでは不潔な部屋の壁や床、鈍く黒光りする刃物や工具など、人間を視覚的に不快にする術を熟知した人間の為せる崇高な嫌がらせの連続です。ドリルが人体に喰い込むシーンもクローズアップでしっかりと映すあたり、監督は相当なサディストでしょう。
2人の仲間を殺害されたパクストンは、同じく拷問され殺されかけていた日本人女性のカナと命からがら脱出しますが、彼らを待ち受けていたのは残酷な結末でした。さすがにこれだけで終わってしまうと胸のすく思いがないと監督も判断したのか、パクストンが変態外科医崩れの男に復讐をとげるシーンが用意されています。



仲間を惨殺され怒りに燃えるパクストンと、不意を突いた攻撃に驚く「エリート・ハンティング」会員の殺人鬼。パトリクスは仇を討つべく壮絶なリンチを加えた後、彼にとどめをさします。

残酷な犯人は裁きにあい、パクストンは帰路につくのでした。「めでたしめでたし」という文句がしっくりくるエンディングです。近年のソリッド・シチュエーション・ホラーと言えば『フォーン・ブース』然り『SAW』シリーズ然り、犯人がハッキリしない、あるいはモヤモヤが残るような後味の悪いラストが特徴的です。その点イーライ・ロスは、『イングロリアス・バスターズ』でナチ将校の頭をバットでこれでもかと言わんばかりに殴打して一種のカタルシスを観客に与えるなど、なにかとサービス精神旺盛な作風です。悪を野放しにするなど彼の映画哲学に著しく反することなのでしょう。観てもらうからにはスッキリした気分で帰ってもらいたい、ホラー映画としての予定調和を大切にするところに監督の優しさが伝わってきますね(?)。



しかしなぜ、この廃墟に棲む狂人たちは無実の人々を惨殺しているのでしょうか。そのヒントは拷問室からの決死の脱出に成功したパクストンがロッカー室で見つけたこの名刺がヒントになっています。



「エリート・ハンティング」と記されたカードの裏には

ロシア人 5,000$
ヨーロッパ人 10,000$
アメリカ人 25,000$

との表記が。どうやらこの廃墟に棲む狂人たちにはある組織が関わっているらしく、サディズムを拗らせて殺害願望まで持ってしまった危険人物たちから金を取り、さらってきた人々を彼らの生贄にささげるという会員制殺人クラブのようなシステムのようです。スロバキアへへ来るまではヨーロッパ諸国で散々買春行為をしてきた男たち。この館は、そんな不埒な男たちが客ではなく欲望の対象として売られる側になる可能性をほのめかしているのです。捕獲され、まさに殺されそうになっているジョシュが「助けてくれ!金はいくらでも払う!」と命乞いをするも、殺人鬼は「金を払う?金を払うのは俺の方さ、俺はお前を買ったんだ!」と嘲笑ってこれを一蹴。彼らの命はもはや単なる商品なのです。日本にも古くには「男の極楽、女の地獄。ここは遊郭、江戸吉原」という有名な文句がありますが、体であろうと命であろうと、常に損な役回りをするのは売られる側、ということなのでしょうか。


残酷描写が看板なのはもちろんですが、本作の持つ恐ろしさの一つとして、この殺人クラブが地元の警察を買収していることを窺わせるシーンが挙げられるでしょう。あからさまな体制の腐敗の描写は、やはり東欧諸国が未だに持っている閉鎖的なイメージがあるためではないでしょうか。つまり現実に起こり得なくもないという妙なリアリティが介在しているため、この恐怖物語には説得力があるのです。怠慢な警察と見知らぬ土地、特に海外の雑多で未知な地に対する恐怖心は、しばしばありもしない事件を作り上げてしまいます。特に「オルレアンの噂」と呼ばれる都市伝説はこの映画とかなりの共通点を持っているように見受けられます。

オルレアンの噂とは?

1969年5月、フランスのオルレアンに流れた女性誘拐の噂の事です。有名な都市伝説の一つで、場所や結末などのディテールは違えど、誰もが一度は耳にしたことがあるのではないでしょうか。その概要は

この街にあるブティックで、若い女性が地下にある試着室に入ると、催眠性のある薬品を嗅がされたり薬物を注射されたりして、前後不覚になったところを誘拐され、外国の売春宿に売り飛ばされていく

というものです。これに類似した話「だるま女」には結末があり、外国へ売られた女性は四肢と舌を切り取られ生きたまま見世物小屋におかれる、というもの。どちらも被害に逢う場所は外国であり、だるま女の場合はその国がアジアである場合が多いようです。混沌とした場所、というイメージが人身売買の恐怖とリンクして物語を作り上げたのでしょう。
興味深いのは、オルレアンの噂が広まるにつれ、もう一つの要素が加わったということです。それは「この誘拐事件に関わっているのはユダヤ人である」というものです。これはヨーロッパにおけるユダヤ人に対するネガティブなイメージが生んだ可能性もありますし、ネオナチや反ユダヤ主義者による陰謀説まで囁かれるなど、多くの謎を残しています。何の因果か、本作を監督したイーライ・ロスはユダヤ系アメリカ人です。映画製作が始まる前年にNATOへ加盟したスロバキアの政治的不透明さを指摘するような物語設定ですが、実はそのネタの本家は自分の民族だったというギャグなのかもしれません。
オルレアンの噂に関してはエドガール・モランの著書に詳細が記されています。他にもジャン・ハロルド・ブルンヴァンなどが都市伝説をテーマとした大変面白い著書を出版しています。興味のある方はぜひご一読されてみてはいかがでしょうか。

それにしても、よくこれだけスロバキアに対するネガティブ・キャンペーンのような映画を作れたものです。スロバキアの観光庁から苦情は来なかったのでしょうか。イーライ・ロス監督の今後の仕事に支障を来すことがないよう、ファンとしてはただただ祈るばかりです。

女主人のベイツ・モーテル - 『オフィスキラー』

『オフィスキラー(原題:”Office Killer”)』, シンディ・シャーマン監督, 1997年



―女性写真家による長編映画デビュー作―。

こう聞くと真っ先に思い浮かぶのは蜷川実花監督の『さくらん』ではないでしょうか。欧州映画のような原色を多用した映像美は、ガーリーフォトブームを牽引した彼女ならではの感性と言えるのではないでしょうか。

しかし、今回ご紹介する作品『オフィスキラー』はそういった過剰な演出は用いられておりません。むしろ主人公ドリーンのように落ち着きはらっていて、それゆえの静かな不気味さが全編に漂っています。一風変わった女性シリアルキラーの魅力をお見せしようと思います。



1.シンディ・シャーマンとは?

本作の監督シンディ・シャーマンは女性写真家です。映画のスチール写真のような作品を撮ることが特徴とされています。セルフポートレイトを数多く手掛けた彼女が意識したテーマは「記号化される女性の存在」であったと言われています。その表現に至った経緯について以下のように語っています。

もし、私がこの時代とこの場所に生まれていなければ、こうした表現をおこなうことはなかったでしょう。そして私がもし男なら、このような方法で、作品を生み出すことはなかったでしょう。

現代の芸術家が身を置く都市は記号のシステムによって統御されています。そこで彼女が最初に注目した女性の記号は「少女」でした。「女」のエロスから遠い無邪気な「少女」もひとつの記号にすぎないということから、彼女は少女のメーキャップをし再び自身をその記号の中に置き考察します。このアプローチが『オフィスキラー』にも表れているように筆者は思います。シンディ・シャーマンとヒロインの記号については『「お仕着せの「女」の記号」シンディ・シャーマン』に詳しく記載されています。



2.地味なヒロイン、ドリーン=少女の表象

本作のヒロイン、ドリーンは出版会社に16年勤続する古株女性社員。時代遅れな瓶底メガネに地味な服装、細いペンシルでかかれた眉毛は左右非対称で歪んでいます。“冴えない女性”のステレオタイプです。そんな彼女が勤める出版社は大規模な人員削減に乗り出すことになり、ドリーンはリストラ課のヤリ手社員、ノラによって自宅勤務の降格処分を告げられます。気弱なドリーンは文句を言いだすことができませんが、長きに渡って会社を支えてきた自分を、日頃から白い目で見てきた同僚たちに対し鬱積があることは言うまでもありません。ある日、不慮の事故で同僚が死亡すると、彼女はその同僚の死体を自宅の地下室へ運び込み、自宅勤務の身となってしまった自分の“仕事仲間”としてしまいます。その後も死体に対し何らかの恍惚を覚えたのか、彼女は同僚たちを一人ずつ殺めては地下室に連れて行きます。それは彼女だけの仲良しクラブのようです。

なぜドリーンが生前は憎んでいた同僚たちの遺体を自宅へ持ち帰るようになったのか。それは彼女の家庭環境と密接に関わっています。彼女には事故により半身不随になってしまった母親がいるのです。その母親というのが大変支配的な正確であり、幼い頃からドリーンに対し支配的な接し方をしてきました。ドリーンの心の闇を作り出した張本人は彼女の母親だったのです。毎日口うるさくドリーンに説教をする母親。40を超えても少女のように母親に服従するしか術のない彼女の心は健全な状態ではありませんでした。

この、親に抑圧される子供という構図は、ドビー・フーパー監督の『悪魔のいけにえ』(1974年)やヒッチコック監督の『サイコ』(1960年)のモデルとなったエド・ゲインと酷似しています。特に母親からの抑圧が人格に影響を及ぼし、殺人行為に走る物語は『サイコ』のノーマン・ベイツの再来と見て取っていいでしょう。死体に異常な執着を示し収集を行う行為も、ドリーンとベイツに共通する幼児性に起因しているのです。

ちなみに母親の半身不随の原因となった事故にはある真実が隠されているのですが、それは是非ご鑑賞いただいた上でお確かめください。



3.映像美としての死体

エロスという記号にとらわれた「女性」の写真を撮り続けたシンディ・シャーマン。やがて彼女は記号による統御に反抗するかのようにグロテスクなポートレイトを発表していきます。汚物にまみれ腐臭が漂う女性の身体。彼女のオフィシャル・サイトにてそれらの作品をご覧になれます。

そして『オフィス・キラー』でもその趣向は存分に発揮されています。ドリーンによって地下室に連れ込まれ、徐々に腐乱していく“かつての”同僚たちの体。生きたまま地下室へ監禁されたノラが誤って腐敗した遺体に手を突っ込んでしまうシークエンスは衝撃的です。

死をテーマにし、死体を映像美として取り扱った作品と言えばユルグ・ブットゲライト監督の『死の王』(1996年)が有名です。『死の王』は、とある一週間に自殺していく人々を静かな視点で追ったオムニバス形式のストーリーに挟み込まれるようにして、腐乱していく死体の定点カメラでとらえた倍速映像が流れていきます。自ら命を絶つ男女をどこか優しげな撮り方で描いていくこの作品は、土へと還っていく死体のように時間の経過を映しだすことで、彼らの魂の安寧を願っているような印象を受けます。

対して『オフィスキラー』の死体美(!)は、シンディ・シャーマンの挑戦なのです。「生」と「性」という記号から解放された人間の亡骸は、命からの乖離を経ていかなる変化を遂げるのか?美的存在であった人間の肉体は生を失ってもなお、鑑賞に堪える魅力を保持するのか?それは生物として無に帰することへの根本的な抗いです。それを示すかのように彼女のとらえる死体は抑えられた色調で、じっくりと腐敗した血液が糸を引く様を克明に描き出します。



かなりおぞましい表現をしてしまいましたが、実は本作、なかなかコミカルな描写に溢れていて、ただのゲテモノ映画に収まらない工夫が施されています。何よりも最大の魅力は、ある意味『ショーシャンクの空に』にも匹敵する爽快なラストでしょう。仕事や学校、自分の身を包む環境に嫌気がさしている方は、ぜひドリーンの痛快な人生を覗いてみてはいかがでしょうか。

新感覚フェティシズムアニメーション - 『緑子/MIDORI-KO』

『緑子/MIDORI-KO』, 黒坂圭太監督, 2011年



13年。なんとこれは本作の製作に費やされた年月です。

CGによる作成が全盛の時代、なぜここまで時間がかかったのか。それは黒坂監督が色鉛筆を使い3万枚にも及ぶ動画を一人で描き上げ、編集、撮影、美術、背景に至るまでほぼ一人で行ったためです。そう、この『緑子/MIDORI-KO』、とんでもない力作なのです。アートアニメーション界でカルト的な人気を誇る黒坂圭太監督の初長編作品の魅力をご紹介いたします。



1.懐かしさを感じる温かみある作画、そして内容とのギャップ

本作は全編、鉛筆の持つ柔らかな質感の素描で描かれています。これがとてもかわいらしい。と同時に、どこか既視感を覚える方もいるのではないでしょうか。筆者の場合は、NHK教育テレビで放送されていた『てれび絵本』を思い出しました。児童向けの可愛らしいタッチのイラストと楽しげな色彩は、観る者を童心へと誘ってくれます。

しかし

その筋では(良い意味で)“変態”と呼ばれている黒坂監督を侮ってはなりません。彼が好むモチーフは「咀嚼・性器・排泄」です。シュヴァンクマイエル監督のようですね。可愛らしいキャラクターたちが、それはそれはおぞましい、キッチュでグロテスクな世界を構築していきます。

主人公であるミドリは新種のや再開発を研究している大学院生です。彼女が作りだしたゴーヤーがねじ曲がったような植物の歪でグロテスクで、そしてそれに指先を這わせるミドリの手のなんと官能的でいやらしいことか!!監督のフェティシズム全開演出には、観る者も最大限の賛辞を持って向かい入れるべきでしょう。



黒坂監督が作成したミュージックビデオ、Dir en Greyの『Agitated Screams of Maggots』ををご覧いただきましょう。

なんとも恐ろしいですね。 『緑子/MIDORI-KO』では特に、食べることへの執着、偏愛が顕著に見て取れます。監督曰く、食事は快楽の原点であり、生きる喜びなのです。主人公のミドリが食いちぎった舌を手に取り「これがお前たちの正体なんだよ!!」と叫ぶシーンは、欲望の象徴である舌が人間そのものであり、抑圧された本能を暴く黒坂監督の現代人への挑発です。



2.鉛筆がならではの質感

先ほどのPVでもご覧いただけた通り、黒坂監督のアニメーションはその動きが独特です。少し霞みがかかったような、もやっとした動きが特徴です。これは鉛筆によるデッサン画と非常に相性が良い表現であると言えるでしょう。

もう一転、鉛筆にこだわった理由に光の明暗、つまり濃淡の使い分けがあります。屋外の風景は日の光が当たっていることがよく分かる暖かいホワイトバランス、転じて室内ではどんよりとカビの臭いが漂ってきそうな重厚なタッチが用いられています。特筆すべきは襖の開け閉めで、光が差し込んだ室内と襖が閉じられた後の暗い室内を全く同じ構図から濃淡を使い分け見事に表現しています。ついついキャラクター造形や突飛な脚本に目が行ってしまいますが、優れたアニメーターは高い作画力を持っていることを改めて気付かされます。



3.不自然な世界とキャラクターたち

 『緑子/MIDORI-KO』には様々なキャラクターが登場します。その怪奇な世界は、他のファンタジー系映画とは若干毛色の違いがあります。


ⅰ.歪んだ透視

黒坂監督が描くビルや家屋などの背景は、すすけてさびれた質感がよく現われていてリアリズムに溢れているのですが、ところどころ意図的にその統一感は崩されています。ミドリの研究室がある家屋の階段がそれです。なぜかこの階段、透視がおかしいのです。グニャリと歪んでいて、まるで魚眼レンズを通して眺めた世界のようです。エッシャーが描く階段を見て頂けるとイメージがしやすいでしょう。



ⅱ.摩訶不思議な登場人物たち

人間界に奇怪なもののけが登場する話と言えば、近年では『千と千尋の神隠し』 が有名です。神様への供物を食べてしまった両親のせいで、少女が不思議な世界へと迷い込んでしまう物語です。千と千尋に限らず(例えば不思議の国のアリスなど)、人間がもののけに会うストーリーにはプロット上に何かしらのきっかけがあり、また明確な境界が存在します。

しかし、本作にはそれがありません。半漁人の様な化け物が、普通の人間の風貌をしているミドリと最初から共存しているのです。なぜ隣人たちが奇怪な姿なのか、説明は一切なし。

こうした不自然な現象が日常生活の中に半ば強引に挿入されることによって、観客は否応なく黒坂監督の不思議ワールドへ足を踏み入れてしまうのです。彼の本質は時計を持ったウサギと言えるでしょう。



ここまで書くと「かなり怖い作品なのではないか」と構えてしまう方もいるかもしれません。ご安心ください。実は本作はとてもかわいい作品なのです。特に人間とヘチマの交配種である緑子に母性本能をくすぐられること受け合いです。そう、本作はミドリと緑子の育児日記、親子愛で満ち溢れた作品なのです。

シュルレアリストの面目躍如 - 『サヴァイヴィングライフ - 夢は第二の人生』

『サヴァイヴィングライフ - 夢は第二の人生(原題: Přežít svůj život, 英題: Surviving Life), ヤン・シュヴァンクマイエル監督, 2010年


「チェコのシュルレアリスト、ヤン・シュバンクマイエル監督最新作!!」という触れ込みを見て、正直鑑賞前はピンと来ませんでした。というのも、僕自身彼がシュルレアリストであるという認識があまりなかったためです。シュルレアリスムの定義と彼の作風がそこまで合致していない気がしていた言いますか…。しかし、本作はやってくれました。まさにシュルレアリスム。と言うよりは原点回帰と言った方が正しいのかもしれません。精神分析に基づく正当な「夢」へのアプローチ。主人公のエフジェンの衣装が寝巻であったり、背景の色彩がモノクロであったり。(多くの人はモノクロの夢を見ると言われています。)分かりやすい表現もありますが、登場するモチーフは夢判断と基にした暗喩的表現であり少々難解です。もちろん筆者も精神医学の門外漢なので詳細は分かりませんが、理解の範囲内で解説じみたことをしてみたいと思います。



1.夢の暗喩表現


『サヴァイヴィングライフ』は主人公エフジェンの夢の中での出来事が主な舞台となります。この「夢を描く」という演出、監督の手腕や個性により様々な表現方法がありますが、シュヴァンクマイエルは極めてオーソドックスな手法を取りました。「オーソドックス」とはつまり、フロイトが提唱した『夢判断』を基にした内容を指します。この精神分析を基にした夢判断、もの凄く大雑把に説明すると

― 夢とは無意識的に選択された記憶を素材とした潜在的な願望の充足を図るものであり、その欲望は性欲(リビドー)に従う ―

のようなことになります。(合っているでしょうか。) 夢には性欲に対する直接的な表現を避ける傾向がある、その結果まるでコラージュ絵画のような統制のないアイテムが出てくる訳です。例えば



鳥の卵⇒女性の乳房


植物⇒体毛


蛇⇒ペニス



等々、何でもかんでも性欲へと結びつけるやり方はいささか強引な気もしますが、作家の表現にケチをつけるのは野暮ですし、何せフロイト大先生が言っているのだから正しいと言うことにしておきましょう。

 その中でも筆者が特に気になったのはこのシーン。

向かって右から男の子がベルトコンベアーのように入っていく建物の窓では、子供がペンチで延々と歯を抜かれています。すると左側から女の子になって出てくるというもの。実は、歯には精神分析的に男根のメタファーであるという説があります。その歯が抜かれた男の子は女の子になってしまう、あまりにも象徴的なシーンです。エフジェンの、そして監督自身の虚勢不安を表しているのではないでしょうか。エフジェンはかかり付けの精神科医にエディプスコンプレックスを指摘されますが、このシーンもそれを象徴させるものとなっています。つまり究極的には母親との肉体的な接触願望であり、幼少時に感じた女性器への恐れ=去勢不安が幼児退行願望へと昇華され、あのようなラストシーンになったのではないかと推測できます。

フロイトによれば、夢に出現する欲望を具現化した素材の選別は超自我によって歪曲的に表現されるとされています。キスシーンなど直接的な性表現もありますが、特に印象に残っている場面は体が人間で頭部が犬や鶏といったミュータントたちです。彼らは人間同士のキスシーンなどよりも更に過激で生々しい性行為を繰り広げます。ここでこの言葉を用いると語弊があるかもしれませんが、まさにシュール。個性の強い作家はしばしばそのフェティシズムを指摘されますが、日本が誇る宮崎駿がロリコンと形容されるならばシュヴァンクマエイルは獣姦の気があるのでしょうか。何はともあれ空恐ろしいという映像であることは間違いありません。



2.ダリの製作方法

さて、シュヴァンクマイエル監督がシュルレアリストと呼ばれる由縁には彼がシュルレアリストの画家たちを敬愛していることも関係しています。その中でも夢を具象化した作品で人気を博した人物と言えば、20世紀において最も有名な画家の一人であるサルバドール・ダリですが、彼の作品製作方法をご存知でしょうか。

彼は作品のみならず様々な奇行においても有名ですが、実は根は普通の人であったと言われています。奇抜な作品を作るために奇人ぶる必要があると考えたらしく、頭にフランスパンを乗せたり、鳥の翼を倣ったハリボテを腕に着け羽ばたいてみたりしていたようです。形から入る人だったのでしょう。

そんな彼の製作風景もまた珍妙で、アイディアは昼寝から得ていました。元々シュルレアリスムは精神分析の手法を作品に用いた芸術運動だったので夢をモチーフにした作品を描く作家は彼の他にもいましたが、ダリの場合はそのやり方が斬新でした。

眠りに入る前にスプーンを握り、その下に鍋を置くというもの。こうすると眠りに入り力が抜け始めた頃に手からスプーンが落ち、鍋に当たって音が出るので目が覚めます。夢は睡眠が浅い時間帯(レム睡眠)に見ると言われているので、夢での視覚体験を作品に起こすには丁度いいタイミングだったのでしょう。



それでは最後に、本作でヒロインを演じた女優、Klára Issováをご紹介します。

1979年プラハ生まれの32歳、という情報までたどり着きましたがソースのページが全てチェコ語だったため詳細を知ることができませんでした。ご覧の通り目鼻立ちの整った美女ですが、筆者は鑑賞中、彼女の顔に既視感と申しますか、何か引っ掛かるものをずっと感じていたのですが、途中で気付いてしまいました。

The White Stripesのボーカル、Jack Whiteにそっくりではないでしょうか。

一度気が付いてしまったら最後、彼女が登場する度にジャック・ホワイトを思い浮かべずには居られませんでした。美男・美女と呼ばれる人は古今東西中性的な顔立ちが多いのでこういったアクシデントも起こるのでしょう。(?)


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