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リュミエールを待ちながら リュミエールを待ちながら

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何が二人を別つのか - 『風立ちぬ』

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『風立ちぬ』, 監督/脚本/原作:宮崎駿, 2013年

「日本の少年よ、まだ風は吹いているか?」
「はい!大風が吹いています!」
「そうか、それならば生きねばならない」

『風立ちぬ』は宮崎駿らしい、人間が生きていくことの業、罪深さを徹底的に暴きつつ、それでもなお、我々は生きていくべきである、という『もののけ姫』以来の人間賛歌がテーマとなっています。
人間が人間らしく生きていくことの大切さを語る上で、戦争を材料にすることは極めて容易です。現にこれまで『風の谷のナウシカ』や『もののけ姫』でも同監督はこの手法を用いていますし、本作の舞台も1920年代。治安維持法が制定された不穏な時期ですし、太平洋戦争と絡めることもできたかもしれません。しかし鑑賞してみるとびっくり、明確な戦争批判など行われていないではありませんか!

『風立ちぬ』は戦争を絡めずに語られた、新しい手法でのヒューマニズム映画であるというのがわたしの所感です。
風という、直接目には見えないものを、いかに映像の中で生への拠り所としていくのか、という演出面でも非常に楽しめる作品となっていますので、その辺りの面白さや解釈を含めて書いていきたいと思います。

1.煙 ― 風を“見せる”ものたち

わたしはもともと、宮崎監督の煙の描き方がとても好きです。彼の作品にはよく蒸気機関が登場しますが、火室から立ち上る煙なんかは、これから冒険が始まるぞ、という雰囲気を見事に出してくれていますし、煙ではありませんが大きな鍋から立ち上る湯気も料理を本当においしそうに見せてくれます。
この描写力がいかんなく発揮されているのが本作であるわけですが、重要な役割を果たしていると表現したほうが正しいかもしれません。というのも、本作のテーマである風。これはもちろん、直接目に見えるものではありません。そこをいかに形あるものとして観客に示すかが重要なポイントとなるわけです。そして宮崎監督は、風の動きとともにその姿、形を変える煙をもってして描き出しました。

劇中では様々なシチュエーションで煙が登場しますが、それらの描写のすべてが大変個性的で魅力あるアニメーションになっていることに気づかれた方も多いのではないでしょうか。
例えば、飛行機のエンジンから出る煙はまるでゼリーのように柔らかく、しかし命を宿しているかのような躍動感に溢れていますし、地震により発生した火事で街を覆った黒煙は、岩のように硬い質感を見せ、決してそよぎません。

一口に煙といっても、その場面や状況によってまったく異なったタッチの煙を描き分けること。言い換えれば、煙に表情与えていることが、本作の醍醐味ではないかと思います。
そして何より、宮崎監督が最もこだわったであろう煙がタバコであることは、もはや疑いの余地はないでしょう。
特筆すべきは黒川家の離れにて二郎が菜穂子の手を握りながら吸ったタバコの煙です。本作には喫煙シーンが非常に多く登場しますが、それらの煙の多くは吐き出された瞬間からじっくりと空間に立ち消えていくように霧散していきます。

しかし当該のシーンだけはまったく趣が異なります。二郎の口から放たれた煙は、まるで一本のロープのように途切れることなく、ゆったりとS字を描きながら二人の頭上で消えることなく漂い続けます。この「消えない煙」が彼らの心情を代弁していることは語るには及ばないでしょう。

2.二郎と菜穂子、ふたりを別つもの

「日本中の子供達に天丼とシベリアを毎日食わせても、お釣りがくる金額だ。」

二郎の菜穂子の恋愛描写は、そもそもこの映画に必要なのか?という問いを見かけたことがありました。結論から言いましょう。必要です。なぜならば、二郎も菜穂子も、特別な存在であるからです。
こういう言い方をしてしまうと、読まれた方はわかったような、わからないような気分になってしまいますよね。それでは宮崎監督の言葉を借りましょう。彼らは「ピラミッドを作らせる側」、または「ピラミッド(=社会階層の象徴)の上位の人々」であると言えます。

そして、わたしなりの言葉を使えば、「傍観者」であるからです。
二郎は、日本中の子供たちのお腹を満たしてあげらるほどの莫大な国税をつかって飛行機の開発を行う、言わば「持つ者」でありエリートです。菜穂子も同様です。資産家のご令嬢であり、療養先は軽井沢。両者とも天災を除けば、生命を脅かすような社会的要因はまったく見当たりません。それを象徴するのが、冒頭の火事のシーンです。もくもくと巨大な黒煙こそ立ち上がってはいますが、肝心の炎の描写はまったくないのです。そして登場人物たちが火の元へ駆けつけるといったシーンも作られていません。家々を焼き尽くしていく様を、二郎も、カメラも、ただ遠巻きに眺めるだけです。

これは大変に意味のある演出です。まさにその瞬間、多くの人々の命が危険に晒されているにもかかわらず、火元を一切描かないというのは、作家としても並々ならぬ覚悟や辛抱があったのではないでしょうか。それでもこれを描かないことは、二郎や菜穂子が、1920年代に日本が直面した危機的状の一般的な当事者、言いかえれば、不遇な時代の犠牲者ではなかったことをしめしているのです。
要は地震も、貧困も、そして戦争も、二郎と菜穂子を脅かす要因ではなかったのです。なぜなら彼らは、選ばれた、特別な人間だからです。

それではここで、二郎と菜穂子のラブストーリーの必要性へと話を戻しましょう。
彼らの愛を引き裂いた要因は何だったでしょうか?
地震?貧困?戦争?どれでもありません。
病気という、どの時代、どの国でも起こりうる普遍的な死因が彼らを別ちます。
わたしにはこれが非常に好印象でした。というのも、仮に二郎が戦死したり、菜穂子が飢餓による栄養失調で亡くなる筋書きであれば(実在の堀越二郎氏は戦後、東京大学の宇宙航空研究所講師となっています)、「戦争は無意味で残酷であり、二度と繰り返してはいけない」という陳腐なお説教に終始してしまったことでしょう。しかし宮崎監督はこれを拒みました。彼は「ピラミッドのある世界」を肯定したのです。

少数の権限を持つものたちが、目的達成のために多くの民を犠牲にする現実があること。庇護され、優遇される立場のものと、命を危険に晒される立場のものがいること。そして堀越二郎の、ものづくりへの姿勢がもつ矛盾や危険性を、決して最後まで否定しなかったことが本作の大義であると感じました。


「まことに生きるのに辛い時代だった」という本作の宣伝文句を聞いたとき、わたしが最初に感じたのは「ならば生きやすい時代がこれまでにあったのか?」ということでした。
いつの時代にも風は吹き荒れています。それは向かい風のときもあれば追い風のときもありますし、そよ風のときもあれば暴風のときもあります一つだけ言えることは、風はひとところには留まらないということです。それは時代の変化や人生の転機など様々な場面の象徴として描かれています。

物語の終盤、九試単座戦闘機のテスト飛行で圧倒的な飛行速度を記録し、まさにこれから日本戦闘機の華々しい時代の幕開けを予感させるシーンにおいて、二郎はその歓喜と風の中で、すべてが凪いだ瞬間を感じ取ります。それは菜穂子の死でした。追い風に吹かれるものもあれば、風が止まってしまうものもいる。その静と動の対比を一枚のスクリーンに描き出した象徴的なカットです。

誰に対しても風は平等に吹くわけではありません。生き残されたものには、今日も強く風が吹き荒れています。それは戦後60年以上経過した今日までずっと同じです。
もしカプリーニ氏が、現代に生きる、様々な向かい風にさらされている人々を見かけたら、きっと今でもこう問うでしょう。

「日本の少年よ、まだ風は吹いているか?そうか、それならば生きねばならない。」

『わたしを離さないで』

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『わたしを離さないで(原題:Never Let Me Go)』, マーク・ロマネク監督, 2010年


キャリー・マリガン、アンドリュー・ガーフィールド、キーラ・ナイトレイ。今をときめく若手俳優たちがずらりと写ったポスターは、一見ロマンチックなラブストリーのようで、そのつもりで本作を観た方はいささか面食らうかもしれません。
クローン技術の発達が生み出す生命倫理の問題をテーマにした映画はこれまでも多く作られてきました。それらの多くがSF色の強い、登場人物のアクションを重視した作風だったことと比較すると、『わたしを離さないで』はずいぶんと真に迫った哲学色の強い作品であると感じました。ですが、ド派手なVFXが使われていないからリアルである、という意味ではありません。原作者カズオ・イシグロの落ち着いたエモーショナルな文体が描き出す医療のあり方は、観るものに何を語りかけているのでしょうか。


【登場人物のキャラクター】
人間のクローンを造るストーリーはアメリカ映画のアクション性と相性がよく、代表的な例はシュワルツェネッガーが主演した『シックス・デイ』(ロジャー・スポティスウッド監督, 2000年)や、ユアン・マクレガーとスカーレット・ヨハンソンが共演した『アイランド』(マイケル・ベイ監督, 2005年)などがあります。これらの作品においてクローン人間たちは“オリジナル”の人間たちのために作られたコピーという位置づけになっており、臓器を提供するためだけに造られた、いわば“道具”として非人道的な扱いを受けるという物語構造を取ります。
アメリカ映画におけるクローン問題をテーマにした作品の命題は、ずばりヒューマニズムの奪還であり、人間が人間らしくあるために闘うことが主人公に求められています。そのため、シュワルツェネッガーやマクレガーのような、筋骨たくましい、マッチョイズムの象徴のような男性が選ばれることとなります。ハリウッド流SFの大儀は、不正と戦い、これを打ちのめすことによって完成されるのです。


それと比較すると、『わたしを離さないで』の主人公、キャリー・マリガン演じるキャシーはか細い美少女であり、彼女の友人ルース(キーラ・ナイトレイ)もきわめて痩身です。『アメイジング・スパイダーマン』で主役に抜擢されたハリウッドのニューヒーロー、アンドリュー・ガーフィールド演じるトミーさえ、劇中では丸坊主にされ病院服を着せられ、なんとも弱々しい印象です。
とにかく被害者となるクローンたちが一様に細く、人道主義のために闘えるような体躯とはまったく言えません。クローンたちはひらすらに弱者で“オリジナル”の人間から搾取される立場なのです。
そして彼らの被虐性がもっとも表われるのが、ルースが3度目の臓器提供によって亡くなってしまうシーンなのですが、驚くべきことにその手術シーンはきわめて詳細に映し出され、彼女の体から内臓が取り出される場面が鮮明に描かれます。いかにも物議を醸しそうな残酷なシーンですが、これをもってして監督を単なるサディストと認定するのは早合点ではないでしょうか。


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このシーンについて筆者は、実に英国らしく救いのない、なんとも皮肉な展開であると評価しているのですが、同時に逞しい男性が活躍するアメリカ映画とは対照的に、若い女性の体を切り刻むという、ある種のフェティシズムと表現しましょうか、会田誠的な美意識が宿っているのではないかとも思うのです。色調を抑えた画作りのなかに際立つ真紅の臓器は、逆説的ながら説得力をもって真の生を観るものに突きつけます。


【無気力、無抵抗な若者たち】
さて、冒頭で述べました「リアルな物語である」という言葉の意味ですが、それは単にヴィジュアルや舞台設定のみを評しているわけではありません。ここで言うリアルとは、キャシーをはじめ“提供者”を育てる施設、ヘールシャムの子供たちが、自分たちに突きつけられた運命に対して、あまりにも無抵抗であるという点です。
まず違和感を覚えるのは、ヘールシャムへやってきた新任教師ルーシー(サリー・ホーキンス)が、ある日生徒たちに彼らの宿命を打ち明けてしまう場面です。実はヘールシャムは、臓器提供を目的としたクローン人間の生成が合法化された世界において、あらかじめ人生が決められた子供たちに人道的な教育を施すことによって人々の生命倫理を試す最後の施設だったのです。ルーシーは自分たちの未来が悲惨なものであることをまったく知らず、無邪気に振舞う子供たちの姿に胸を締め付けられ、真実を口にしてしまいます。
「大人になったら臓器を取り出される」と聞かされれば、普通ならばショックを受けたりパニックに陥りそうなものですが、ヘールシャムの子供たちは席に着いたまま冷静に話を聞き、トミーにいたっては風で机から落ちたプリントを先生に拾ってあげるほどの冷静さです。


“オリジナル”の人間たちのために命を捧げるために生み出された子供たち。しかし、彼らの行動や思考はまさに人間そのものであり、尊厳に満ち溢れていることが節々に表われています。ですが、ヘールシャムの子供たちの人間らしさは、のちに彼ら自身の活路を絶ってしまう原因となるのです。
成長し、臓器提供手術を二度経験したトミー。ルースの死をきっかけにキャシーとの本物の愛に気づいたトミーは、彼女のために少しでも生き長らえるべく、摘出手術の猶予を申請するために、ヘールシャム時代のある慣行を思い出します。それは生徒たちが創作した詩や絵画などの中から、優秀な作品をギャラリーへ展示するというシステムです。トミーは生徒の作品を学校側が品評するのは、芸術に対する姿勢から人格を評価し猶予申請の基準にするためだった、と主張します。


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かくしてトミーは入院中に描いた絵をたずさえ、キャシーと共に校長だったエミリと、ギャラリーへ出展する作品を選出していた、マダムと呼ばれる女性のもとへ摘出手術の猶予を懇願しに行きます。しかし、当然ながら子供たちの作品が施術を猶予する選考の基準になっていた、という事実はありませんでした。ギャラリーへの出品はあくまでも、ドナーとしての運命を背負わされた子供たちにも人格があり、人権があることを主張するためのものだったのです。そしてその主張もむなしく、彼らの体は移植を待つ人々のために切り裂かれ続けています。


もっとも悲しむべきは、当時の先生たちに頼めば猶予がもらえると本気で信じていたトミーでしょう。自らの過酷な運命を幼いころから受け入れ、しかし愛する人のために少しでも生き長らえようと、成長した今、初めて自らの手で運命を変えようと試みますが、彼が取った手段はかつて自分たちを管理していた学校の先生に頭を下げるということでした。施設を出てからもいまだに体制に反抗することなく指示を仰ぎ続ける、実直を通り越して哀れともいえる彼の姿は、既存の社会体制に異を唱えることなく、なかば諦念めいた表情で日々をやり過ごす現代の若者への鋭い批判なのではないでしょうか。
ヘールシャムで見せた、どんな運命にも捨て鉢になることなく大人への忠誠を守り続けるという誠実さが、大人になった今、トミーから真に人間らしく生きるために、体制に反旗を翻し闘うための意志を奪ってしまったという帰結は悲劇的な皮肉であり、人間の業の深さを物語っています。
絶望に打ちひしがれたトミーは帰り道で突然車を降りると、キャシーの目もはばからず悲痛な大声で泣き叫びます。自分たちを支配する大人たちへ抵抗する術を知らないトミーが見せた、唯一の反抗と呼べる、人間らしい行動でした。


ラストシーンにおいて、一人残されたキャシーはこう独白します。


― What I’m not sure about is whether our lives have been so different from the lives of the people we save. We all complete. And none of us really understand what we’ve lived through. Or feel we’ ve had enough time. (私たちと、私たちが救った人々の命には、どんな違いがあったのだろうか。人はみな終わりを迎える。誰もが生の意味を理解することなく、その一生を閉じるのだ。) ―


私たちは誰もが、今生きている人生は自分のものであると信じているかもしれません。しかし本当にそうなのでしょうか。ある日、本当はこう生きるべきであるという指針を見つけたとき、それを手にすることができるのか。ひょっとすると、私たちは想像よりもより多くの権限を奪われていることだってあるのかもしれません。あの日のトミーのようになす術なくただ泣き叫ぶ姿は、明日は我が身であるという警鐘のようにも思えます。現実や既存概念に安住するだけではなく、時には私たちを取り囲む環境について、批判や抵抗をするべきだ、という助言なのではないでしょうか。

60年代青春劇の後日譚 - 『ジュリエットからの手紙』


『ジュリエットからの手紙(原題:Letters to Juliet)』, ゲイリーウィニック監督, 2010年


“もし、あの時。何気ない二つの言葉が組み合わされたとき、それは人生を大いに悩ませる。”
あの時の選択は本当に正しかったのか。人生において誰もが一度は考えることではないでしょうか。しかし当然ながら、その答えを教えてくれる人などいません。一度下された選択は、決して取り消すことができないまま進んでいくのが人生なのですから。それゆえ、「もしあの時、違う選択をしていたら?」を実現してくれる映画に人々が長らく魅了され続けているのは、普遍の心理なのかもしれませんね。
アマンダ・サイフリッドが主演を努めた『ジュリエットからの手紙』は、恋愛という人生の中でも最も悩ましい選択の問題を描いた恋愛ロードムービーです。


【ストーリー】

婚約者のヴィクターと共にイタリア旅行へ訪れたソフィーは、そこで世界中の恋に悩める女性から届けられた手紙に返事を書く女性、ジュリエットの秘書たちと出会います。彼女たちの仕事ぶりに心を打たれたソフィーが取材のため同行すると、偶然にも50年前にジュリエットの秘書たちへ送られた手紙を発見します。そこには若い頃、駆け落ちを約束した男性の元へ向かう勇気を持てず、イギリスへと帰ってしまった女性、クレアのメッセージがしたためられていました。秘書たちはソフィーにこの手紙への返事を書くことをすすめます。ソフィーは思いのたけを乗せ、50年前のソフィーへ返事を書きました。すると驚くべきことに、ソフィーが孫のチャーリーを連れ、イタリアへとやって来たのです。クレアは「あなたの手紙が私に決心をさせました」とソフィーに告げ、50年前の恋人、ロレンツォ・バルトリーニに再会する意志があることを打ち明けます。ロマンチックな展開に心を躍らせるソフィー。しかし、この旅が必ずしもハッピーエンドであるとは限らないとの理由から、ロレンツォ捜索に乗り気ではないチャーリー。かくして、50年前の愛をさがす3人の奇妙な旅の物語が幕を開けるのです。




【キスシーンに隠されたテーマ】


本作の重要なテーマは、その瞬間に感じた愛は本物なのか、そしてその感情を信じて行動を起こすことは正しいのか、という問題に答えることです。
クレアは50年前のあの日、ロレンツォとの駆け落ちの約束を反故にしてしまったことを今日まで気にかけてきました。彼女はソフィーと出会うことでようやく積年の思いを実らせるチャンスを得ました。それはクレアにとって50年前のロレンツォへの、そして自分への贖罪を意味しています。
運命を感じた相手について行くかどうかという問題は、ソフィーとチャーリーにも降りかかります。ロレンツォ捜索の旅の途中、宿泊先のホテルの中庭で寝そべり星空を見上げた二人はキスを交わします。



しかしその直後、二人は上空(正面)へと向き直り、浮かない表情のまま、言葉を交わすことなくその夜は部屋へと戻ってしまうのです。それもそのはず、この時点でソフィーにはヴィクターという婚約者がいるため、たとえ旅先特有の高揚や開放感からチャーリーにときめいても、それは許されないのです。チャーリーの表情からも同じ心情がうかがえます。




実はこのシーン、ある名作のラストシーンをなぞるような構図になっています。それが以下のシーンです。





ダスティン・ホフマンを一躍スターダムへと押し上げたアメリカン・ニューシネマの代表作、『卒業』(マイク・ニコルズ監督、1967年)です。
結婚式の最中にエレーンを連れ去り、乗り込んだバスの後部座席で彼女と幸せそうに見つめ合う主人公ベンジャミン。通常ならばここでハッピーエンドとなり映画は幕を閉じるのですが、上の画像をご覧ください。正面を向いた二人の顔からは笑顔が消え、浮かない表情のまま哀愁たっぷりのテーマ曲、サイモン&ガールファンクの『サウンド・オブ・サイレンス』につつまれ物語は終わります。
二人が視線を交し合うという行為は、いわば二人だけの世界を見ている状態であり、刹那的な幸福が支配している瞬間です。そこから正面を見据えるということは、二人だけの世界から現実的な世界、つまり他人や未来を視野に入れる行為であると言えます。そのとき、彼らは気づいてしまったのです。


自分たちの将来は、本当に明るいものなのだろうか。この略奪愛は本当に正しいのだろうか。


それはきっと、この映画を観ている人たちも感じた不安でしょう。しかし答えを教えてくれる人などいません。この時代特有の雰囲気でもありますが、本当の愛とは何なのか、という問いを胸に、人々は劇場を後にするより他にありませんでした。
チャーリーの祖母クレアは、若き日にロレンツォとの駆け落ちをするべきかいなか迷った結果、勇気を出すことができず彼との約束を反故にしてしまいました。クレアとロレンツォの物語は、エレーンとベンジャミンのもう一つの結末、つまり駆け落ちをしなかった『卒業』のアナザーストーリーとして位置づけられています。
そしてソフィーとチャーリーは、まさに40年後のエレーンとベンジャミンなのです。旅先で恋に落ちた二人。しかし、ソフィーには婚約者がいる状態。この思いを抱いたままチャーリーと旅を続けることは悪いことなのではないか。何事もなかったように、ソフィーはヴィクターの元へ戻るべきなのではないか。絡み合う視線を正面、つまり現実に戻したとき、チャーリーと過ごす未来は正しくないものであると、二人は感じているのです。




【『卒業』の後日談としてのハッピーエンド】


『ジュリエットからの手紙』の手紙が目指したもの、それは40年前にエレーンとベンジャミンが不安げな表情を残したまま終幕を迎えてしまった物語の続きを明かすこと、つまり勢いに任せ、結婚式場からエレーンを奪い去ったベンジャミンの愛は正しかったことを、ソフィーとチャーリーが結ばれることで証明するのです。
クレアがロレンツォと50年ぶりの再会を果たし、役目を終えヴィクターの元へ帰ろうとするソフィー。その姿をもの惜しげに見つめるチャーリーにクレアは「ソフィーのような女性が世界に何人いると思ってるの?私のようになってはだめ。今すぐ追いかけなさい」と告げます。ソフィーのあとを追って彼女のホテルにたどり着いたチャーリーでしたが、彼女がヴィクターとキスをしている場面を目撃してしまい、現実を突きつけられたチャーリーは失意の中イギリスへと帰っていきます。
しかしアメリカへ帰国したソフィーも、チャーリーと離れたことで初めて自分の本当の気持ちに気づき、ヴィクターに別れを告げ、クレアとロレンツォの結婚式に出席するため再びイタリアへ向かいます。
果たして、彼女のこの決断は正しかったのでしょうか。実はその答えは、ソフィーがクレアに宛てた手紙の中に書かれていたのです。そしてロレンツォとの結婚式にてクレアがその手紙を読み上げるシーンは、本作のテーマの総決算とも呼ぶべき名シーンです。ソフィーはクレアに向け、50年前の愛について書面でこう語っています。

物語の結末は分かりません。でも、かつて真実と感じた愛なら、遅すぎることはありません。かつて真実なら今も真実のはずです。
「たとえ若気の至りだと言われようとも、その時に正しいと感じた愛は真実であり、若い二人は結ばれて幸せになるべきなのである」。あの日、バスに飛び乗ったエレーンとベンジャミンの物語はハッピーエンドだったこと、そしてソフィーはチャーリーと結ばれて幸せになることを、彼女はあらかじめ定めていたのです。チャーリーからのプロポーズを受けれ入れ、周囲からの祝福に包まれながら抱き合うソフィーたちの姿は、悲しい表情で正面を見据えた二組のカップルの不安を拭い去るには十分すぎるほどの完璧なラストシーンと言えるのかもしれません。
真実の愛とはなにか、という点に主眼を置いて話をしてきましたが、本作の魅力は他にもイタリアのヴェローナ地方をロケーションにした美しい風景、そして各登場人物の国柄を取り入れた小気味よい会話劇などがあります。大らかで強気なアメリカ人女性のソフィーと、生真面目で皮肉屋なイギリス人のチャーリー、陽気なイタリア人たちと、それぞれの性格がよく出た言葉のやり取りには思わずクスリとさせられます。観客としてはやはり、強気なソフィーに感情移入をしたくなるのではないでしょうか。とびっきり甘いエンディングを含め、アメリカ映画の魅力が存分に詰まった一本です。

なぜりりこの部屋の窓は塗り潰されているのか - 『ヘルタースケルター』

『ヘルタースケルター』, 蜷川実花監督, 原作:岡崎今日子, 2012年

現代社会で消費されていく若き女性の悲劇を90年代独特の閉塞感で描き出した岡崎今日子原作の『ヘルタースケルター』。蜷川監督は主人公りりこについてこう語っています。

「彼女を消費していったのは、男性社会なのか?」って思っていた、なんとなくの薄らぼんやりした前提が、ある日「あ、絶対違う!」って直感した。「女は女に消費されてるんだ」って思ったんです。

映画『へルタースケルター』公開直前! 監督 蜷川実花 単独インタビューより)

この発言は実に的を得ています。というのも、これはまさに監督自身が写真家として人気を得て、実際に体験してきたことだからです。ガーリーフォトブームの旗手として、つねに“女性的なかわいさ”を求められ、それにこたえ続けた蜷川実花。彼女が本作のメガホンを取る意義についても本人は「もともと岡崎さんの作品が好きで、『ヘルタースケルター』を撮るなら女性である私が絶対にやるべきだという確信みたいなものがありました」と自信をのぞかせていました。その意義は確かにあったと筆者も感じます。

しかし、『へルタースケルター』を蜷川実花が監督する意義が「彼女が女性だから」と言っていいのでしょうか?

たしかに興行成績を見ると、観客の割合は圧倒的に若い女性が多いとのことで、りりこや蜷川監督のスタイルに共感が寄せられたと考えられるでしょう。しかし、監督が『さくらん』を撮っている以上、やはり彼女が描き出す女性像は男性からの欲望を多分に含んだ視線にさらされる運命からは逃れられないのではないでしょうか。蜷川実花が描いた、本作の重要なテーマである「欲望の装置」、その本質とは一体なんなのでしょうか。

窓が塗り潰された部屋、その意味とは?

蜷川実花の写真は原色を多用した刺激的な作風で知られています。その徹底した色彩感覚は映画においても発揮されており、彼女が手がける美術やセットもやはり写真と同様、作家の美学が前面に押し出されています。

もちろん『ヘルタースケルター』における美術も例外ではなく、なかでも監督がもっともこだわったセットが、自身の私物も持ち込んで作られたという主人公りりこの部屋です。

「女の子が思い描く理想の部屋をつくってみたかった」との監督の言葉どおり、全体にわたってポップな小物が所狭しと並べられ、まるでひとつの生態系を形作っているかのようです。ひと際目を引くのが、空をバックに微笑む真っ赤な唇がペイントされた窓です。窓の両脇にはカーテンも確認できますが、このペイントのため外の風景はまったくうかがい知ることができません。もちろん、外からもりりこの部屋の様子を知ることはできないでしょう。いわば、ここはりりこのために作られた「美の密室」なのです。

しかしなぜ外界を遮断するようなデザインにしたのでしょうか?

りりこが「目ん玉と爪と耳とアソコ以外は全部作りもの」な、全身整形美人であることをひた隠すための心のベールを表しているのでしょうか?それもあるかもしれません。しかし筆者は、この塗り潰された窓の本当の意味は別にあると感じます。

その理由をお話しする前に、今度はこちらをご覧ください。

この部屋は1985年に公開されたポール・シュレイダー監督の映画『ミシマ:ア・ライフ・イン・フォー・チャプターズ(原題:Mishima: A Life In Four Chapters)』に登場するセットです。アカデミー賞受賞経験もある世界的デザイナー、石岡瑛子がデザインを担当し、高い評価を得ました。

『ヘルタースケルター』のりりこ部屋も、このセットから大きな影響を受けていることがわかります。主な共通点は

1.窓がない(外の景色を見られる構造になっていない)

2.外界の存在が最初からなきものとされ、部屋自体が空間に独立して存在しているかのようなたたずまい

3.原色を基調とした鮮やかな内装

の3点が挙げられます。部屋の手前には男女とおぼしき二人組みが仲睦まじく座っている様子が確認でき、全体的になんとも淫靡な雰囲気が醸し出されています。男女の情事を連想させる個別に仕切られた狭い空間、実はこのテーマ、蜷川監督の一作目『さくらん』で舞台となった遊郭とコンセプトを同じくしているのです。そして『ヘルタースケルター』のりりこの部屋のデザインも、「閉ざされた淫靡な雰囲気の空間」というテーマは前作から地続きになっています。 

つまりこれが蜷川実花の描き出す「欲望の装置」なのであり、その本質は「遊郭」なのです。

そうすると、窓が巨大な唇で塗り潰され、外界を遮断している部屋の意味もわかってきます。あのペイントは彼女の持つ美の真実を隠すための心の壁ではなく、外観の進入を拒絶し、非現実空間を演出するブラインドと考えるべきではないでしょうか。完全に閉ざされた狭い空間の中で、若い女性が客に自らの肉体をショーとして消費させる、ここに『さくらん』と『ヘルタースケルター』に共通した構造があります。

見せたいものを見せる

外界から隔離された部屋に押し込まれた欲望を装置として機能させる試みは、作品中だけでなく、映画を上映している映画館そのものをも巻き込むような仕掛けが用意されています。

本作が口コミで盛んに話題にのぼった背景に、やはり沢尻エリカという女優にラブシーンを演じさせた事実があることは無視できないでしょう。これまでスキャンダラスなゴシップを数多く振りまいてきた彼女の裸体は、あまり良い表現ではないかもしれませんが、ショービズ界としては格好のコンテンツであることに疑いの余地はありません。観客は男性、女性を問わず、『ヘルタースケルター』における沢尻エリカのラブシーンを批評的な目というよりは、純粋に彼女の肉体美を称える官能美的な、あるいは好奇の目でとらえていたのではないでしょうか。これこそ蜷川監督が仕掛けた、若い肉体をいたずらに消費させることを意図した「欲望の装置」的演出なのです。

観客の世俗的な欲望を刺激するもう一つの方法として、原作と決定的に異なっていたのが、りりこの整形前の写真が掲載された雑誌を映し出した点です。劇中で女子高生たちがりりこを話題にしていた際、この全身整形疑惑のシーンがもっとも彼女たちを熱狂的に描いていたことを覚えています。スキャンダラスな話題ほど知りたくなるのが人間の性であり、また消費されていくスピードも刹那的です。

そして整形前のりりこの姿を見たいという欲望は、この映画の観客がもっとも期待していたものでもあるのではないでしょうか。ポスターに書かれた「見たいものを、見せてあげる」のコピーを忠実に履行するかのように、美しく若い女性をひたすら消費させることで大衆の好奇心を満たそうという態度は、やはり『さくらん』を撮った彼女ならではのチャレンジであり、また監督が原作のテーマを非常に理解していることもうかがえます。見世物としての隔離された個室、それを映画館という舞台で再現することで、蜷川実花の仕掛けた「欲望の装置」は完成するのです。

まだある「欲望の装置」の演出

1.スマートフォン

蜷川監督は本作を撮る上で、90年代と現在の文化をうまく取り合わせることに気を配ったと語っています。特に女子高生たちが持つスーマトフォンがそれを象徴していたのではないでしょうか。雑誌やテレビが主要な情報源だった90年代から、よりはやく、個々人が情報を発信できるインターネット世代へ。浅田検事が語った「人は簡単にテレビや雑誌の中の人間を愛しはしない。15分もたてば忘れられてしまう」はアンディー・ウォーホルの「15分で誰でも有名になれる」をまさに裏に返したような見事なセリフです。情報技術の進歩が話題としてのゴシップ、そして有名人本人の寿命をますます短くしていることを的確に表しています。誰もが持ち歩くようになった小さな「欲望の装置」は、今日も限りなく消費者の好奇心を煽るコンテンツを与え、その多くが忘れられていきます。

2.渋谷の街並み

蜷川監督は現代の渋谷を、定点カメラを用いてせわしなく行き交う人や車の様子を早送りで映し出すことで表現しました。この手法が興味深いのは、ジオラマ風写真を撮る際のピントの使い方を映像に応用していて、まるで渋谷を箱庭であるかのように見せていた点です。小さな模型の中でたくさんの人々が供給過剰な情報に溺れているかのように錯覚させる撮影法も、渋谷全体を一つの欲望の装置として見立てていることがよくわかります。

非日常的な快楽。それは現実から隔離された空間でしか得ることができませんが、現在の日本ではそれをより効率的に提供しようとするあまり、消費空間をどんどん縮小させ、画一的で即物的な悦楽に身を置く人々がふえているのかもしれません。いたるところで量産されていく欲望の装置。それは動物的欲求のみが支配する監獄や阿片窟なのでしょうか。それともすべての苦痛から解き放たれた地上の理想郷なのでしょうか。

Everything we know about Ridley Scott’s Space Jockeys

Everything we know about Ridley Scott's Space Jockeys

8月24日に公開が迫ったリドリー・スコット監督最新作『プロメテウス』。79年に公開され、今なおSFホラーの金字塔としてその地位を不動のものとしている『エイリアン』のスピンオフ作品です。ノストロモ号がLV-426惑星で発見した巨大な宇宙人の死骸、スペースジョッキーにスポットが当てられた物語で、長年のファンにとっては垂涎の新作と言えます。というのもこのスペースジョッキー、あまりに魅力的な外観(H・R・ギーガーがデザインを担当しました)に加え、キャラクター設定が多くの謎に包まれており、さらに『エイリアン』の撮影でつかわれたセットは火事により焼失してしまうなど、好奇心をあおる事情を多くかかえているのです。海外では『エイリアン』シリーズに関するゲームやノベライズ版が多数発表され、その中でスペースジョッキーについて様々な仮説が語られています。しかしながら、スペースジョッキーに関する日本語で書かれた資料はあまりありません。『プロメテウス』公開前にもっと多くの方へ本作への興味を持っていただける資料はないかと奔走したところ、スコット監督へのインタビューを含む興味深い海外記事を見つけましたので、つたないながらも翻訳して本ブログに掲載させていただきました。原文サイトはEverything we know about Ridley Scott’s Space Jockeys(7月29日現在)です。一部意訳や誤訳があるかもしれませんがご了承ください。



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Everything we know about Ridley Scott’s Space Jockeys



リドリー・スコット監督の新作『プロメテウス』にてスペースジョッキーの前日譚が描かれることが明らかとなりました。『エイリアン』で座ったまま孤独な死をむかえた巨人の様々な謎が明かされます。彼らの長い鼻はスーツなのでしょうか?それとも象のような種族なのでしょうか?彼らの身長は?そして『プロメテウス』における役割は?調査スタッフはDVDに収録されているコメンタリーやコンセプトアート作品、監督や『エイリアン』/『プロメテウス』の撮影クルーへのインタビューを通じ、この未知の宇宙生命体の謎を解き明かすべく奔走しました。一部、『プロメテウス』本編の核心にふれる部分を含みますのでご注意ください。

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名前の由来は?
本来この宇宙飛行士が公式にスペースジョッキーと名付けられた事実はなく、『エイリアン』の制作過程において、いつの間にかこのあだ名がつけられました。スコット監督は、一体誰がこの怪物に命名したのか、まったくわからないと述べています。撮影クルーはこの宇宙人の呼び名を考えていて、どういう流れかでスペースジョッキーの名に落ち着きました(これは制作初期の絵コンテで確認できます)。しかし、この宇宙人にはもともと名付け親がいて「パイロット」という単語を含む名前がついていました(H・R・ギーガーがつけた呼び名です)。『エイリアン2』の監督、ジェームズ・キャメロンは「巨大な歯科患者」と呼んでいましたが、のちに「マラカクス」と呼ぶようになります。学術名は「ムンドゥス・ガバナビ(ユニバーサル・パイロット)」です。
第一の犠牲者
スペースジョッキーはおそらく、エイリアンの最初の犠牲者と考えて間違いないでしょう。ノストロモ号の乗組員たちは救難信号を受け、LV-426惑星に降り立ち、そこで発見した墜落した宇宙船へと足を踏み入れていきます。そこで乗組員たちが目にしたのは、何者かによって胸を食い破られた巨大な宇宙人の死骸でした。

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スペースジョッキー誕生の原点は?
外観や質感、そして座りながら死んでいる点、すべてをとってもこの造形はスイスの芸術家H・R・ギーガーの作品に影響を受けていることがわかります。実は『スタービースト』という映画の脚本を手掛けたダン・オバノンと原案のロナルド・シャセットにとって、ギーガーの描いたスペースジョッキーは忘れられない作品であり、彼らに大きな影響を与えました。オバノンは後にこの映画のタイトルを『エイリアン』に変更しています。
オバノンはギーガー作品の暗澹たる世界に生きる、おぞましい生物の映像化を熱望していました。1977年、スコット監督がオバノンの脚本をもとに映画の制作に着手した頃、ギーガーは作品集『ネクロノミコン』を発表しました。その中でも『ネクロノミコンV』という作品をスコット監督が大変気に入り、中央のエイリアンの頭部にのっている小さなエイリアン(上図参照)にインスピレーションをうけ、このエイリアンの造形を発展させて宇宙飛行士型エイリアンを制作するようギーガーに依頼しました。ご存知の通り、『ネクロノミコンV』のスペースジョッキーと映画に登場するスペースジョッキーのデザインに大きな変更は見られません。

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スーツなのか象型人間なのか?
最新の映画用スチール写真では(上図はスペースジョッキーのディテールがわかりやすいように明度を上げています)、ノオミ・ラパス演じるエリザベス・ショウが暗い洞窟をさまよっています。彼女の背後には2体の直立したスペースジョッキーが立てかけられており、この写真を見る限りではスペースジョッキーは鼻の長い生物というよりはバイオスーツであると考えた方が正しいでしょう。そして映画サイト『フィルモフィア』に掲載されたスコット監督へのインタビューによると、やはりこれはスーツであるようです。
『プロメテウス』では『エイリアン』で明かされなかった、スペースジョッキーについての多くの謎が取り上げられます。私は長いこと、スペースジョッキーは兵器であり、彼が乗っていた宇宙船は兵器を運搬するための貨物船であるという構想をあたためてきました。それならば、あのスーツの中には誰が入っているのか?スペースジョッキーは死骸ではなく、スーツなのです。あのスーツを開くとき、何を目の当たりにするのか?彼らはどこへ行き、何を目的として宇宙船に乗っていたのでしょうか?

(via ScreenRant)

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スペースジョッキーの本当の姿とは?
象のように長い鼻の異性人は実はスーツだった、という事実がわかりましたが、それならば彼らの本来の外観はどのようなものなのでしょうか?調査スタッフは、その真実が『プロメテウス』の第一弾トレーラーに隠されていることをつきとめました。画面右側に立つ生物を見てください。彼の大きさならあのバイオスーツを着ることができるでしょう。それに加え彼はスペースジョッキーとは全く異なるスーツを身につけています。これが本物のスペースジョッキーなのでしょうか?

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追記:先ほど提示したスペースジョッキーのコックピットにいる大男が着ているスーツはプロメテウス号の乗組員が着ているものと同じではないか、との指摘を受けたので、この疑問を議論すべく上の画像をアップロードしました。たしかに類似点はありますが、完全に同じものであるとは考えられません。

『プロメテウス』で何がおこるのか?
1999年にリリースされた『エイリアン』20周年記念DVDのコメンタリーにおいて、リドリー・スコット監督はスペースジョッキーについてのより大きな構想について語っています。
私はずっと『エイリアン』シリーズの制作へ復帰して5作目、6作目を作り、ファンの疑問に答えようと思っていました。つまりスペースジョッキーはどこから来て、なぜLV-426惑星でミイラ化していたのか、そして彼らは一体何者なのか、という疑問です。火星を舞台にしてしまうと地球からあまりにも近いのでSF映画として戦いの舞台にするには好ましくありません。私の理論では、あの宇宙船は高度文明の戦艦空母なのであり、積載されていたエイリアンの卵は生物兵器として培養された貨物だったのです。つまり、大規模な細菌兵器戦争が起こっていたのです。

スペースジョッキーは遠い未来に存在する宇宙船の運転手という設定を考えていましたが、これほどH・R・ギーガーのコンセプトを体現した例もありません。つまり「どこまでが生命体で、どこからが機械なのか」、機械と生物の融合です。スペースジョッキーの身体は座席と一体化しているように見えます。『エイリイン』から読み取れることは、スペースジョッキーが死んでいた座席から救難信号が ―― おそらく危機的状況に自動送信されるプログラムになっているのでしょう ―― 発信されたということです。スペースジョッキーの身に起こった事件はおそらく、こういうことでしょう ―― 運搬していたエイリアンの卵が何らかの原因で孵化してしまい、宇宙船に乗っていた他のスペースジョッキーたちを襲ったのです。彼らの目的地がどこだったのかはお答えできませんが、とにかくスペースジョッキーは脅威的な存在であり、高度に発達した文明から来た者で、今となっては座席へと融合してしまったのです。

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しかしなぜスペースジョキーは、大量破壊兵器をエイリアンという生物兵器の形で必要としたのでしょうか?おそらくその理由は『プロメテウス』の別バージョンのトレーラー、シャーリーズ・セロン演じるメレディス・ヴィッカーズがスペースジョッキーのコックピットで再生させている巨大なホログラム図に隠されていることでしょう。
もしくはこちらの要約された脚本の中にあるでしょう。注意:この概要は古いものだとして、正確なソースとしての役割をスタジオ側は否定しています。しかし、やはりエイリアンがスペースジョッキーの謎を解き明かす鍵を握っていると我々は予想しています。

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スペースジョッキーの本拠地は、『エイリアンvs.プレデター』で登場していた!
オバノンとシャセットの草案によれば、ノストロモ号の乗組員たちがLV-426惑星に着陸した際、巨大な砂嵐の中でスペースジョッキーのコントロールパネルに三角形が映し出されているのを発見したとあります。
嵐がやむと、巨大なピラミッドが出現しました。乗組員たちはピラミッドの中へと入っていき、ギーガーによってデザインされたエイリアンの生態が記された壁画を発見するのです。これはスペースジョッキーがどのようにしてエイリアンの犠牲となったかを示しています。上の画像はイアン・ネイサンの図録集『エイリアン・ヴォルト』に掲載されているそのピラミッドの全貌です。

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クリス・フォスによって描かれたイラストで、スペースジョッキーの神殿を示したものです。

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フォスが制作した、ノストロモ号の乗組員がピラミッド探索を行っているイラストは他にも多数あり、もともとは彼らがそこでエイリアンの卵を発見するシーンもありました。

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スコット監督はピラミッドのシーンを時間の都合上カットしましたが、『エイリアンvs.プレデター』の中で、スペースジョッキーではなくプレデターの神殿として採用されました。ただし、エイリアンとその犠牲者を祀る目的の建造物としてではなく、若いプレデターの成人の儀として人間たちをおびきだし、獲物となるエイリアンを繁殖させるための巨大迷宮という設定になっています。

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スペースジョッキーのトリビア
-映画『エイリアン』におけるスペースジョッキー登場シーンは、そのあまりに高額な制作費のためにすべて廃案になるかもしれませんでした。セットを作るだけでも50万ドルもの資金が必要だったのです。しかしスコット監督はこのシーンの撮影を断固として譲らず、結果として映画に残ることとなりました。

-スペースジョッキーの全高は27フィートもあります。

-『エイリアン』から着想を得たマイケル・フリードマンの小説『原罪』において、スペースジョッキーの正式名称とされるマラカクスが与えられました。

-マーク・フェルハイデン作のコミックス『ダークホース・エイリアン』において、スペースジョッキーは人類の奴隷化を企む邪悪な種族として描かれていますが、後にエイリアンを殲滅すべく人間と協力するという設定です。このストーリーは実際には起こりえません。


Sources: Alien Explorations and the amazing book by Ian Nathan Alien Vault.

黄金時代へ素敵なタイムリープを - 『ミッドナイト・イン・パリ』

『ミッドナイト・イン・パリ(原題:Midnight In Paris)』, ウディ・アレン監督, 2011年

 『アニー・ホール』や『マンハッタン』など、ニューヨークを撮らせればこの監督の右に出るものはいません。最近は活躍の場をヨーロッパに移し、『マッチポイント』や『それでも恋するバルセロナ』において新境地を開拓しています。76歳とは思えないバイタリティの持ち主、ウディ・アレン。そんな彼が新たに目をつけたロケーションはパリ。レ・ザネ・フォル(狂乱の時代)と謳われたフランスのゴールデン・エイジに想いを馳せる一人の男に魔法がかけられます。

 1920年代、偉大な作家たちで溢れる百花繚乱のパリに心奪われる売れっ子脚本家の主人公、ギル・ペンダー。小説家への転身を目指していた彼が夜のパリをさまよっていると、12時の鐘と共に1920年代へとタイムスリップをし、憧れの芸術家たちと対面を果たすという、男性版シンデレラともいえる物語です。

 監督自身が「ニューヨークに住んでいなかったら一番愛する街はパリ」と公言するほど、その美しい街並みへの情愛に溢れた本作の魅力をご紹介します。




1.パリの情景を惜しみなく映し出すオープニングクレジット

 アレン監督のパリに対する深い愛情は、オープニングにおいてすでに確認できます。昼と夜の光によって表情をかえる、市内の名スポットの美しいスナップの連続。まるでファッションショーのようにきらびやかです。 例えば下はギルがワインの試飲会に参加している様子ですが、背景にこっそりとエッフェル塔が映りこんでいます。こういった何気ないシーンにおいても、画に豪華さを出せるのはパリならではの魅力でしょう。



ものの数分のスライドショーですが、このOPクレジットを見ただけでもチケット代の元を取った気分に慣れること請け合いです(いささかセコい感性ですが)。それほどまでにこのパリの情景は美しく、溜め息必至です。ぜひ劇場でご覧いただくことをおすすめします。



2.黄金時代を彩る芸術家たち

 1920年代のパリ黄金時代へとタイムスリップしたギルが遭遇する偉大な芸術家たち。ウディ・アレンらしく敬愛するアーティストたちの性格を的確に捉えた、ウィットに富むジョークや台詞回しに思わずクスリとさせられた方も多いかと思いますが、やはり監督が東海岸出身のインテリだけあり、わかりにくい小ネタもあったのではないでしょうか。無論、筆者もすべてのネタがわかったわけではありませんが、ここでは有名な作家の解説や、知っているとさらに楽しめる豆知識を書いてみました。

a.ジェイムズ・ジョイスってどんな人?



 ギルが鼻持ちならないインテリ気取り男、ポールと行動を共にすることをなんとか回避するために“どうしても外せない予定”を婚約者イネスに提案します。「ジェイムズ・ジョイスが食事をした場所なんだ!」しかしギルの説得もむなしく、イネスに「それだけ?」とあしらわれてしまいます。なぜ彼がその場所にこだわりを見せたのでしょうか。

 ジェームズ・ジョイスはアイルランドの小説家です。彼の大長編『ユリシーズ』はその後の文壇に多大な影響を及ぼした、20世紀文学で最も重要な作品の一つとされています。ヨーロッパでは「ジョイスを読まずして小説家を志すものはいない」と言われているほどです。小説家志望者にとってまさに登竜門的存在です。

 つまり、これから小説家としての成功を目指すギルにとって、ジョイスがいた場所へ行くことは、聖地巡礼の意味合いがありそうです。験かつぎのようなものですね。


b.ルイス・ブニュエルってどんな人?



 アドリアナの前でうっかり婚約していることを口に出してしまい、彼女からバーに置いてけぼりをくってしまうギル。そんな彼を見かねて同席を誘ったのが、日本でも有名なシュルレアリストの巨匠、サルバドール・ダリです。この役を演じたエイドリアン・ブロディはまるでダリ本人がのりうつったかのような存在感でしたね。

 そしてダリの友人としてテーブルに登場するのが、同じくシュルレアリストであり映画監督でもあるルイス・ブニュエルです。ダリにとって盟友的存在であり、二人が共同で制作した『アンダルシアの犬』は映画史に残る名作です。ブニュエルの名は知らなくても彼の作品なら耳にしたことがある方も多いのではないでしょうか。

 ちなみに、ギルがブニュエルに映画のアイディアとして語った「ある人物がパーティーに行くが、そこから出られくなる」という話は、ブニュエルが監督した『皆殺しの天使』という作品のストーリーです。『ミッドナイト・イン・パリ』では、ギルがこの映画の原案を提供し、それをブニュエルが後に映画化した、という設定になっているようですね。





c.なぜギルは雨のパリにこだわるのか?

 冒頭からギルはしきりに雨のパリにこだわりを見せていました。なぜそこまで雨が大事なのか?疑問に思いながら観ていたところ、ギルがイネスと彼女の母親とショッピングをしているシーンで気が付きました。大きな通りに面した店を出ると、しとしと雨が降っています。ギルは歩いて帰ろうと提案しますが、イネス親子は傘をさしタクシーを探します。この場面が、ある絵画へのオマージュであるように思えたのです。

 その絵というのはギュスターヴ・カイユボット作『パリの通り、雨』という作品です。カイユボットが活躍したのは19世紀末、本作中にも登場したパリのもう一つの黄金時代、ベル・エポックと呼ばれる時代です。実はアレン監督、インタビューにおいてベル・エポックをこう評しています。


(タイムスリップで)行くとしたら、ベルエポックの時代に行ってみたいね。ベルエポックの時代は今みたいにシャンゼリゼ通りに、Tシャツも、絵はがきも売ってない。本当に美しいパリが形成されるその瞬間だったと思う。その美しさは計り知れないはずだよ。


まさにカイユボットが描いた時代のパリそのものです。ギル、もといアレン監督が雨のパリにこだわるのは、絵画的美しさを追及すると同時に、観光地ぜんとしていなかった古きよき時代へ思いを馳せているからなのでしょう。


『パリの通り、雨 (Rue de Paris, temps de pluie)』,ギュスターヴ・カイユボット作,1887年


3.アレン監督の芸術家としての姿勢

 自身の作品では監督と同時に脚本も担当する多彩なウディ・アレンですが、その妙技では歴代の芸術家たちの個性を表すセリフとして存分に発揮されています。特に印象深かったキャラクターはヘミングウェイです。

 ヘミングウェイといえば『誰がために鐘はなる』や『武器よさらば』を著し、猟銃で自らの命を絶ったマッチョイズムの権化とも言えるアメリカを代表する小説家ですが、彼の話す情熱的なセリフから、監督はヘミングウェイに対してこれまでのイメージとは違った性格をあたえようとしたのではないでしょうか。

 憧れのヘミングウェイに出会い、自身の小説を批評してもらうギル。そんな彼にヘミングウェイは「死を恐れるな。死を恐れては何も書けない。小心は愛のなさゆえに起こるのだ。いい女を抱け(概括)」とアドバイスします。冷淡な文体ゆえに本人の性格もそうであると思われているヘミングウェイに、あえて人間味あふれるセリフをあたえ、作家の卵には惜しみない愛情を注ぐ。アレン監督の作家哲学が表出した演出です。





 いい女を抱けというヘミングウェイの箴言を素直に受け入れようとしたのか、ギルがピカソの愛人アドリアナに慕情を抱くこともこれと関係しています。タイムスリップする前までは、いけ好かない知識人気取りのポールに歯がゆい思いをしていましたが、ピカソが実際に制作していた時代を目の当たりにした今、ギルは水を得た魚のようにポールの誤った知識を生き生きと訂正します。それもそのはず、ギルの知識は、ピカソやセザンヌの作品を無名時代から収集していた近代芸術の擁護者であり偉大な小説家、ガートルード・スタインの批評の受け売りなのですから。

 意見の丸パクリはともかく、ここから筆者が読み取ったメッセージは、芸術家たるもの、机上で理論ばかりこねくり回していないで、街へ出て、実地で美を学び、愛を感じろという1920年代の芸術家たち、そしてアレン監督からのアドバイスです。夜のパリをバックにアドリアナと情熱的なキスを交わすギルの姿がそれを物語っています。



 尊敬する芸術家に触れ合えたことで自信を深めたギルでしたが、とはいえひ弱な文科系男性にとってダブルデートは重荷でしかなく、しかも一方の男が社会的に地位の高いインテリとなれば劣等感が強まるばかりでしょうから、やはりそういった男性とは1:1のしっぽりとしたデートをおすすめいたします。
 



4.ギルの未来はどうなるか? 

 憧れの1920年代パリにすっかり心酔し、これぞ我が生きる道と考えていたギルですが、ベルエポックこそが黄金時代であるというアドリアナ、そしてルネサンスこそが至高であったとするロートレックやゴーギャンを前に、自分の進むべき道をもう一度自問することになります。
 本当の黄金時代とはいつなのか?小説家としてのキャリアはどうなるのか?そして自分はどの女性と結ばれるべきなのか?
 実はギルの行く末は、ラストシーンで彼の傍らに立っている女性がすべてを暗示しているのです。



 この女性に見覚えはないでしょうか。




 そう、彼女はパリ市内のレコード店でギルが出会った看板娘です。演じているのは新進気鋭のフランス人女優、レア・セドゥーです。『イングロリアス・バスターズ』(クエンティン・タランティーノ監督,2009年)においてフランス人農夫の娘役を演じ、美麗でミステリアスな容姿と、深い憂いをたたえた瞳で多くの映画ファンをとりこにしました。筆者も彼女こそアンナ・カリーナの再来であるとひそかに評価しています。

 さて、最終的にギルに微笑むマドンナは彼女ということになるのですが、なんとラストシーンまで彼女の名前は明かされていません。しかしギルは、過去のどの時代でもない現代のパリで、それまでまったく知らなかった女性と共に人生を歩む決意を固めます。そして彼女は名前を告げるのです。“ガブリエル”と。

 小説家として大成すべくパリに残ることを決めたギル。そんな彼の前に現れたのは、容姿も名前も、まさに天使そのものな女性だったのです。夜の市街を歩き始めるギルとガブリエル。そんな二人の門出を祝うかのように、そしてギルの成功を暗示するかのように、ギルが愛してやまない“雨のパリ”が彼らをやさしく包んで映画は幕を閉じるのです。12時に魔法をかけられた男は、きっと近い将来、本物のシンデレラマンになれることでしょう。なんという希望的観測、粋なはからいでしょうか!



 あなたがもし、日々の暮らしにマンネリを感じ、また古きよき日に思いを馳せているならば、そんな時はちょっと部屋を抜け出して、深夜の街へ繰り出し、ガラスの靴を落としてみてはいかがでしょうか。

『赤死病の仮面』

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『赤死病の仮面(原題:The Masque of the Red Death)』, エドガー・アラン・ポー著, 1842年

 その作家の影響力は、広い太平洋を越えて極東の島国の小説家に江戸川乱歩というペンネームを与えたほど甚大です。アメリカ恐怖小説家の雄、エドガー・アラン・ポー原作『赤死病の仮面』が今回のテーマです。とは言っても、文芸批評ではなく、映像化作品のご紹介です。ちなみに、ロジャー・コーマン監督作ではありません。


あらすじ

 ある時代、ある国で、赤死病という感染症が流行り、多くの死者が出ていました。その国の王様は家臣や友人と城に閉じこもり厳戒体制を敷きました。安全な城内で仮面舞踏会をしていると、どこからともなく不審な仮面の人物が入ってきて…
 と、このように赤死病という架空の感染症を擬人化し、その恐怖を描いた物語です。トップに掲載しました画像はハリー・クラークによって描かれた挿絵です。いかにも死神らしい、おぞましい外見をしていますね。
 ちなみに赤死病とは、その名前から黒死病(ペスト)を元にしいるように思われますが、本作の執筆当時に猛威をふるっていたコレラや結核に影響を受けていると言われています。ただし出典はWikipediaです。申し訳ありません。

 それでは本題の映像作品です。1969年にユーゴスラヴィアのアニメーター、パヴァオ・シュタルテルとブランコ・ラントヴィチによって製作されました。そうです、アニメーション作品です。両者は画家・デザイナーでもあったので、映像化した作品では油絵のような重厚な質感がいっそう恐怖を引き立てています。どうぞご覧ください。



 いかがでしょうか。まるで錆びた金属のような、荒涼とした重みのある赤褐色の使い方。筆の跡がはっきりと見て取れる荒々しいタッチ。本作が製作されたのは20世紀半ばですが、その作風からは1800年代終盤からおこった世紀末美術の潮流を意識して描かれたことがうかがい知れます。

 それでは問題です。原作との相違があったことにお気づきいただけましたでしょうか。
 正解は、城内へ侵入してくる謎の人物が美女として描かれているのです。エドガー・アラン・ポー作品の挿絵を多く手がけた世紀末美術を代表するイラストレーター、オーブリー・ビアズリーが描いた『赤死病の仮面』も、やはり擬人化された病魔は妖艶な美女として表現されています。

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 これは恐らく、国民が恐ろしい疫病に苦しんでいる時運を全く顧みない、横柄な君主に対する寓意が含まれているのではないでしょうか。不義の男を誑かすハニートラップは死に至る病、などと書くととても示唆に富む話になりそうですが、エドガー・アラン・ポー本人は文学における教訓主義に対して否定的な立場を取っていたようで、これをアレゴリーと解釈するのは勇み足になるかもしれません。ここは大人しく、知識や教養をかなぐり捨てて映像的で耽美な文学世界へ身を委ねるのが正しい態度かもしれません。

アレックスとKKKの意外な関係 - 『ヤバい経済学』

スティーヴン・レヴィット/スティーヴン・ダブナー著『ヤバい経済学─悪ガキ教授が世の裏側を探検する(原題:Freakonomics Intl Pb: A Rogue Economist Explores the Hidden Side of Everything)』, 望月衛訳, 東洋経済新報社, 2006年

もはや説明不要なほどのベストセラー。2010年にはアレックス・ギブニー監督により映画化もされた、センセーショナルなエコノミクス論です。表向きは経済学を謳いながらも、中絶と犯罪発生率の関係や相撲の八百長のインセンティブなど、既存の枠組みにとらわれない自由な発想と斬新な切り口での研究は話題を呼び、アメリカでは400万部の売り上げを記録しました。
そんな有名作品をなぜ今さら取りあげるのかと申しますと、実はタイトルの通り、本書のある個所が映画『時計じかけのオレンジ』(スタンリー・キューブリック監督, 1971年)と奇妙な一致をしめしていることを発見したためです。それはKKKと不良少年アレックスです。アレックスとは言わずと知れた『時計じかけのオレンジ』の主人公、近未来社会で暴力とセックスに明け暮れる問題児です。そしてKKKは南北戦争後に設立された白人至上主義団体です。時代も思想もまったく接点がないのではないか?その通り、実際何の関係もありません。というのも、これはあくまで筆者が直感的に発見した類似点ですので、こういう見方もあるのか、というお気軽な姿勢でお読みいただけると嬉しいです。


1.白い衣装

KKKと聞けば、この悪名高い白装束を想起する方も多いでしょう。このコスチュームは、南北戦争の退役軍人ネイサン・ベッドフォード・フォレストが行った、白装束を着て黒人居住区を練り歩くという嫌がらせに端を発します。当初は単に黒人たちを脅かすだけのつもりだったようですが、そのあまりに威圧的な外観に恐れをなした黒人は、次々に家の中へと逃げ込んでいったそうです。これに味をしめたフォレストは次第に過激な暴力行為に及ぶようになり、黒人差別主義者の仲間と衣装を統一し、やがて巨大な組織となっていったのです。顔をすっぽりと覆ってしまうマスクを集団でつけるという行為は、身分を隠すという目的のみならず、相手に恐怖を植え付けるという意味でも非常に有用であると言えるでしょう。



それでは『時計じかけのオレンジ』のアレックスたちの服装を見てみましょう。


シャツ、パンツ、サスペンダー。見事に白で統一されています。また黒いシルクハットも被っています。紳士的なトラッドスタイルがかえって不気味さを醸し出していますね。KKKと同じく白を基調としていること、メンバー全員を同じ服装で統一して組織であることを示す態度は、暴行を加える相手に対して抵抗する意志を根底から奪い去ってしまうほどの威厳があります。心理的に相手を追い詰めるという目的では、両者のコシュチュームは極めて合理的であると言えるでしょう。
 『時計じかけのオレンジ』においてKKKのマスクに呼応するアイテムは、アレックスたちが暴力行為をはたらくシーンで身につけている不気味な仮面がそれにあたります。これはKKKのものよりさらに進化して、暴力的な意味合いが強く出ています。その仮面が以下の画像のものですが、鼻の部分が天狗のように長く突き出ています。そして後ろでは仲間が女性を凌辱しています。これは言うまでもなく、男性性の持つ暴力の顕在化であり、相手を性的に支配しようとする残忍なファルスです。両組織の衣装に見られる残虐性は、暴力を外観で表現することにより、相手を恐怖に陥れ無力化し蹂躙してしまう点に表れています。




2.独特な言葉

 アレックスたちをとりわけ奇特に見せているのは、彼らが仲間内で用いる「ミルク・プラス」や「ウルトラヴァイオレンス」といった未来言語、ナッドサット言葉です。
 ナッドサット言葉とは、翻字したロシア語の接尾辞を取り込んだ英語で、小説の原作者であり言語学者でもあったアンソニー・ヴァージェスが考案しました。ナッドサッド(Nadsad)はロシア語で10を表す数詞接尾辞ナッツァチを翻字したもので、簡単に言うと英単語の語尾をロシア語のように変化させた言葉をアレックスたちは使っているのですが、これには通常の言語のような規則性があるわけではなく、変化は無作為に行われているそうです。そのため、ナッドサッドは―人工言語や方言としての性格も勿論ありますが―隠語に近い性質を持っているようです。つまり合言葉です。
 秘密組織、特にフィクションの世界では合言葉が必要不可欠と言っても過言ではないでしょう。そして実在する組織KKKでも、アレックスたちのナッドサッドと極めて似た合言葉が使われていたのです。


 『ヤバい経済学』によると、20世紀初頭、アトランタにステットソン・ケネディという男がいました。彼は白人であり、南部出身者です。この特徴だけを見ると彼は典型的な黒人差別主義者のように思えますが、実は魔逆でKKKを心底憎んでいたそうです。 理由は彼の乳母である黒人女性フロが、KKKにより暴行され、凌辱されたためです。当時のKKKは政治・経済界の大物とも手を組んでいて、まさに白人によるテロリズム、社会構造の頂点に君臨する巨悪でした。だからこそケネディは、何とかしてその牙城を崩そうと奔走することになります。彼がいかにしてKKKの内情を調べ上げたか、そのノウハウを自伝『KKKのフードを剥ぐ』で明かしています。ちなみにこの本、自伝とは名ばかりで、ケネディには打倒KKKの志を同じくする協力者ジョン・ブラウンという男がいたのですが、その協力者であるブラウンが行った偵察までもケデディは自分の手柄であるかのように記述しているため、果たしてどこからどこまでが「自伝」なのか、という点に関しては曖昧である、という事実は明かしておかなければならないでしょう。


 さて、ケネディ―ブラウンかもしれませんが―がKKKという組織の実情を暴く上で実際に何をしたのでしょう。それはKKKのメンバーになりすまして会合に出席するという、スパイものではお約束の諜報活動です。その実地調査の中で、ケネディはKKK組織内である奇妙な風習があったことを明かしています。合言葉です。その部分を『ヤバい経済学』の一説から引用しました。

たとえば、いろんな言葉の頭に「Kl」をつけるのがKKKの慣わしだった。2人のクラクスマンが地元のクラヴァーン(Klavern=tavern、支部)でクランヴァセンション(Klonversation=conversation、話)をした、なんて調子だ。(p.73)


こういった、まるで冗談であるかのような会話を、メンバーたちはいたって真面目に行っていたというのです。そしてこの出来の悪いコントのようなKKKの内部事情が、後々彼らの組織の空中分解を引き起こす大きな鍵となるのです。その話は次項にて。 ここで重要なポイントは、KKKの合言葉は「Kl」を接頭辞として変化させている、きわまて隠語的性格の強い言語であるという点です。
 それでは再び『時計じかけのオレンジ』のナッドサッドに登場してもらいましょう。既にお気づきかもしれませんが、接頭あるいは接尾詞を用いた人口言語を使用しているという点が彼らの共通点なのです。



3.悪党の末路

 アレックスの暴力に明け暮れる日々にも、ついに終わりが訪れます。仲間の裏切りにより逮捕された彼は、刑務所において実験的な人格更生方法であるルドヴィゴ療法の被験者となります。ルドヴィゴ療法とは、被験者に嘔吐感を催す薬を投与した後、椅子に固定し残虐な映像を延々と見せることで、暴力行為=吐き気という条件反射を植え付ける、人間をパブロフの犬にしてしまう恐ろしい荒療治です。以後彼は、それまで散々手を染めていた悪事がまったく出来なくなる体質となります。しかしそれは彼に善意が宿ったわけではなく、暴力に対する生理的嫌悪感からの本能的回避がそうさせているだけでした。
 それはそうと、アレックスの人格改造とKKKの衰退に一体何の関係があるのか、という至極真っ当な疑問を抱かれるのはもっともです。しかし、ここにもアレックスとKKKには奇妙な一致が見られるのです。
 ケネディは何とかしてKKKを撲滅するべく様々な内情を探ってはいましたが、どれも目立った効果はありませんでした。KKKが政府機関と癒着していた事実を鑑みれば当然であったかもしれません。そんな彼の身にある転機が訪れます。その出来事について『ヤバい経済学』にはこのように記されています。


男の子たちがスパイごっこみたいなことをしていて、たわいのない秘密の合言葉を言い合っているのを見かけて思った。KKKの合言葉やなんかの秘密を国中の子供たちにばら撒いたらすごくないか?秘密結社の牙を抜くのに、結社の最高機密をガキ扱いする―さらに公にする―よりもうまいやり方なんてあるだろうか?(p.77)


 意外に思われるかもしれませんが、当時アメリカで起こった黒人に対するリンリ事件に占めるKKKの割合はそれほど高くありません。それでもなぜ彼らが恐怖の権化のような存在でいられたかというと、その威圧的な外見に加え、徹底した秘密主義を貫いていたためです。一度見せしめ的なリンチ行為―ビリー・ホリデイの『奇妙な果実』が有名です―を行っておけば、それ以降黒人は恐れをなし、KKKに抗おうとはしなくなります。そうしてKKKはのうのうと翼を広げてきたのです。しかしその実態を、ケネディは地道な諜報活動によりつかんでいました。
 彼は組織の中で実際に行われている会合の本質―捌け口を求める哀れな男たちの慰みものであるということ―を知っていたため、この事実を大衆に暴露すれば、組織の牙城は瞬く間に崩れ落ちると踏んだのです。しかしどうやってその情報を流布させるのでしょうか?
 それが当時、晩ご飯時に放送されていたラジオ番組『スーパーマンの冒険』です。ケネディがこの企画を持ち込むと、プロデューサーは快諾しました。1940年代後半、ヒトラーやムッソリーニといった民主主義の敵を失ったスーパーマンは、それに代わる新しい敵を必要としていました。ラジオのプロデューサーたちはKKKの実情―単語の頭に「Kl」をつけるといったひどく幼稚な慣習など―を、面白おかしく台本に仕上げました。それらは数回に分けてラジオ放送され、これが大ヒット。KKKは全米の笑い物となったのです。これにより組織は集会のメンバー参加率低下や入団希望者の激減などの現象に見舞われ、着実に弱体化していきました。ケネディの目論見は見事に成功したのです。


アレックスとKKK、両者を衰退させたものはなんだったのでしょう。それは一つに、それまでの自身の行いを再現したストーリーです。もう一つは、劇場のスクリーン、ラジオといった大衆娯楽向けのメディアが使用されたという点です。
 第二次世界大戦においてナチ党は、映画やラジオといったマスメディアをプロパガンダに利用しました。その効果は絶大で、例えばレニ・リーフェンシュタール監督によるプロパガンダ映画『意志の勝利』は、その映像・構成の完成度の高さから今日に至ってもなお、マスターピースとしてその地位を不動のものとしています。それは当時の文化人たちにとって、文明が悪の枢軸に侵犯されるという甚大な侮辱行為であったに違いありません。だからこそ、戦争が終わった世界ではマスメディアを平和利用する機運が高まっていたと見るべきでしょうし、またそれらによって反社会的な集団を糾弾することができれば、それはまさに文明の、そしてヒューマニズムの勝利として歴史に偉大な1ページを刻むことになるでしょう。アンソニー・バージェスとステットソン・ケネディが夢見ていたもの、それは人文主義の勝利であったのかもしれませんね。

男性のロマンを映像化したサービス精神の塊 - 『エンジェルウォーズ』

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『エンジェル ウォーズ(原題:Sucker Punch)』, ザック・スナイダー監督, 2011年



人はみな大人になるにつれ子供の頃の夢を忘れていくものですが、稀にその夢を持ち続け、いつか大輪の花を咲かせる人もいます。きっとそういう人がアーティストと呼ばれるのではないでしょうか。『エンジェル ウォーズ』の監督、ザック・スナイダーもそんな童心を持ちつづけた人物の一人です。

今回取り上げる『エンジェル ウォーズ』、公開当時から一方では絶賛、他方では酷評と賛否がはっきり分かれていたので大変気になっていました。というのも貼付しましたポスターの通り、監督の趣味を前面に押し出した作風となっており、これに地雷臭を感じて敬遠した観客層がいたため、興業的にはあまり振るわなかったと伺っております。この手の作風が好きそうなタランティーノ監督でさえ、2011年の映画ランキングでワーストに本作を挙げています。

冒頭からこんなことを書いてしまうとまるでネガティブキャンペーンですが、ご安心ください。ちゃんと見所のある作品です。レンタルして観ようかどうか迷っている方にとって、本稿が何かしらのきっかけになれれば幸いです。



1.ロボトミー手術の恐怖と闘う美少女達

物語はベイビードールが誤って妹を殺害してしまい、精神病院へ収監される場面から始まります。そこでは少女たちが踊り子、と言うよりもストリッパーに近いダンスで客を喜ばせることを強いられていました。彼女たちは結束して施設からの脱出の計画を立て、そのために必要なアイテムを集めていくことになります。しかし支配人であるブルーに企みを見破られ、リーダー核のスイートピーは計画の中止を提案すしますが…

と、ひどくザックリと述べましたが、実は本作で展開されるストーリーの大部分がベイビードールの妄想であり、それゆえアイテムを集めいくシーンがまるでRPGゲームのように美麗な映像が繰り広げられます。プロットを正確に理解しようとすると構造が大変複雑であることに気がつくでしょう。詳しい物語解析につきましてはk.onoderaさんの映画批評ブログに掲載されていますので、横着ながらトラックバックさせていただきます。



2.ファンに男性が多い理由は?

これは私のイメージなのですが、本作を賞賛されている方は比較的男性が多いように感じました。なぜこうも男性から支持を得られるのか、その原因をいくつか考えてみました。


ⅰ.中二病的妄想をすべて映像化したファンサービス

ベイビードールとその仲間たちは脱出というミッションをクリアするため、過酷で過激な妄想世界で戦闘を繰り広げます。その中には巨神兵あり、ゾンビあり、ドラゴンありと、監督がアニメ・ゲームを大好きであることがよくわかる舞台設定になっています。ストーリー上、これらの映像はベイビードールが妄想していることになっていますが、どう考えてもザック・スナイダー本人の妄想を映像化しています。多くの映画作家は年をとるにつれ、気取ってしまったり恥ずかしがったりしてこういったテーマは撮らないものですが、その点スナイダーは自分の欲望に正直で、「俺はこういう映像を撮りたいんだ!」という愚直なまでの情熱が感じられます。こういう自分の創作意欲に対して直向きな姿勢は、作家として大変評価できるところだと筆者は考えています。


Ⅱ.BGMの選曲センス

先ほど述べましたように戦闘シーンが非常にカッコいいのですが、そこで流れる音楽もまたカッコいいのです。というのも、本作のサウンドトラックは以下のようになっています。



1. Sweet Dreams (Are Made Of This) (Emily Browning)
2. Army Of Me (Sucker Punch Remix) (Bjork featuring Skunk Anansie)
3. White Rabbit (Emiliana Torrini)
4. I Want It All/We Will Rock You (Mash up) (Queen with Armageddon aka Geddy)
5. Search And Destroy (Skunk Anansie)
6. Tomorrow Never Knows (Alison Mosshart and Carla Azar)
7. Where Is My Mind? (Yoav featuring Emily Browning)
8. Asleep (Emily Browning)
9. Love Is The Drug (Carla Gugino and Oscar Isaac)


まるでおもちゃ箱をひっくり返したように、ひたすら監督が好きな音楽を引っ張り出してきたような選曲ですね。中学生が好きな洋楽をいっしょくたにして一枚のCDに焼いた「俺ベスト」に近い感覚だと思います。


特に印象的だったのは映画『ファイト・クラブ』(デヴィッド・フィンチャー監督, 1999年)のエンディングで使用された”Where Is My Mind?”にベイビードールを演じたエミリー・ブラウニングがボーカルで参加したカバー曲です。本家よりもしっとりとした仕上がりになっています。




『ファイト・クラブ』のように特に深刻な思想を提示せず、ただカッコいいという理由で本曲を選ぶセンスも結構好きだったりします。




Ⅲ.妄想による冒険、その正体

とにかくド派手な戦闘シーンが売りの本作ですが、その戦闘というのは脱出アイテムを入手するためにベイビードールが踊るシーンに妄想として挿入されていて、実際に行っているのは地図やライターを盗むといった極めて些細なことなのです。この、実は単なるイタズラレベルの行動にダイナミズムを与えている点にこそ、本作の魅力があるのではないでしょうか。男の子が小さい頃にしていた探検ごっこに非常に似た感覚を覚えるためです。
大きな木を登る、川を飛び越えるといった大人から見れば大したことないことでも、子供には大冒険に感じられるものです。勇気が必要な行動も、仲間と一緒ならわくわくする。そういった、誰もが幼い頃に感じた躍動感をあのシーンは思い起こしてくれます。そういう意味では、本作は『スタンド・バイ・ミー』の系列に属する作品なのかもしれません。男性から人気がある秘訣はきっとここにあるのでしょう。


『エンジェル ウォーズ』が男性を魅了する理由を語ってまいりましたが、最後に彼女たちの衣装について言及しないわけにはいかないでしょう。
ベイビードールたちはダンサーとして客を魅了しなければなりません。なので終始セーラー服にミニスカートという煽情的な服装をしています。特に驚いたのはベイビードールが肌色のピッタリとしたニットを身に着けているシーンで、一瞬上裸なのではないかと目を疑ってしまいました。


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直接的な性描写はもちろんないのですが、こういった十代の男の子が好みそうな“微エロ”を盛り込んでくるあたり、ザック・スナイダー監督はどこまでもサービス精神が旺盛であると微笑ましく思いました。

屈折した美意識が織り成す不快感 - 『ムカデ人間』

『ムカデ人間(原題:The Human Centipede)』, トム・シックス監督, 2010年


 長き映画史を振り返れば、サスペンスとマッドサイエンティストはなんて相性が良いことでしょう。『カリガリ博士』に始まり、『フランケンシュタイン』など、様々な狂人たちが己の能力の粋を集めたモノを創造したいという欲求にもとづき怪物を生み出してきました。それは映画作家の情熱と同じく、飽くなき創作意欲が成せる賜物なのかもしれません。そして時は2010年、イギリスとオランダの地において、まさに奇天烈、とんでも博士が大活躍してしまうカルト(化間違いなし)映画が産声を上げました。『ムカデ人間』です。


1.博士の異常な執着
 これまでのマッドサイエンティスト映画では人知を超えた架空の怪物が登場することが定石でしたが、本作に登場するドイツ人医師ヨーゼフ・ハイター博士の趣向は一味も二味も異なっていて、「人間を繋いでみたい」という、常人には当然ながら理解不能な野望を抱いています。というのもこの博士、かつてはシャム双生児の分離手術の名医で、人体の結合に対する関心を異常なまでに拗らせてしまった結果、今度は逆に複数の人体を結合させて一つの生命体=ムカデ人間を作るという発想に至ったわけです。どこからそんなモチベーションが発生してどう維持してきたのか、などという野暮な突っ込みを入れてしまうと途端にこの映画のテーマは瓦解してしまうので、観始めたらとにかく最後まで一気に観てしまうことがポイントです。かくしてアメリカから旅行に来ていた不幸な女性二人と威勢の良い関西弁を繰り出す日本人男性一人が犠牲となってしまいます。哀れ邪悪な博士の囚われの身となってしまった三人の運命とは?


2.作り手は“変態”か?
 実は本作、そのあまりに奇想天外かつお下劣な作風ゆえ、日本では劇場未公開だった当初からカルト映画ファンの間で話題騒然となり、ひとたび検索をかければレビューサイトが数多くヒットします。もちろん筆者もいくつかの感想を拝読したのですが、わりと多く目にとまった意見が「アイディアこそ突飛で素晴らしいが残虐性や変態性は凡庸」というものです。筆者が察するに、『ムカデ人間』なる映画を積極的に鑑賞してレビューをつける方々ですから、おそらく平素から極めて過激なゴア表現を含んだ作品をご覧になっているのではないかと存じています。それゆえ本作の直接的な流血や人体破壊描写の少なさには少々ご不満を抱いているのではないでしょうか。


 しかしながら、これに対し筆者は反論を翻したいと思っています。この映画を撮ったトム・シックスは間違いなく変態です。
そもそもなぜハイター博士がムカデ人間の創造を志したかと言えば、有能な医師である自身の技術と、彼の言うところの「完璧な生物」への憧れがあったためです。博士にとってムカデ人間は崇高な生物なのであり、それを作る能力を与えられた限られた人間にはこれを行う使命のようなものがあったのだと考えられます。つまり作劇的にハイター博士は神の代理人として見ることができるのです。


 神の如き絶対的な力を持っているのですから、無実の人間をさらってその体にメスを入れることなど彼は到底悪いことなどとは思っていません。それどころか、博士の表情からは自分だけに許された誇り高きオペであるとの自負まで感じられます。まさに変態です。


 そしてこの意識は監督の画作りにも表れています。全体的に絞りを抑えて色彩に落ち着きを持たせた格調高い画面、被写体を舐め回すように丁寧かつゆっくりと行われるパンとティルトアップ。特に印象的だったのは結合されたムカデ人間が博士の庭に連れ出されるシーンです。


3人の人間が繋がっているという点を意識して、シンメトリーを意識したとても厳格なカメラワークがなされています。こういった撮影方法、誰かに似ていると思ったら、あの完璧主義で有名な映画作家スタンリー・キューブリックでした。こんなキワモノ映画(誉め言葉です)を撮っているにもかかわらず、作り手はあたかも「崇高な芸術作品を作り出しているんだ」といういやらしい美意識を全面に押し出していて、それがショットの至る所に散見されます。まるでハイター博士自身がカメラを持って撮影しているかのような錯覚に陥りました。このねっとりと絡みつくような美しさ、完璧さへのこだわりを感じさせる撮り方は、ハイター博士の異常性を演出するために用いられたとすれば、相当優れた演出ではないでしょうか。


さて、この『ムカデ人間』にはなんと続編もあるようで、今度はなんと12人を連結させるという壮大なスケールで行われるようです。もちろん一作目では控えめでったグロテスク描写を増大させるというファンサービスもあるようです。しかし『SAW』シリーズのようにゴア表現に走るあまりサスペンス性がどんどん薄れていってしまうのではないかと筆者は危惧しているのですが、いずれにしても話題性にこと欠かない作品であることは間違いないでしょう。

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