
『ヘルタースケルター』, 蜷川実花監督, 原作:岡崎今日子, 2012年
現代社会で消費されていく若き女性の悲劇を90年代独特の閉塞感で描き出した岡崎今日子原作の『ヘルタースケルター』。蜷川監督は主人公りりこについてこう語っています。
「彼女を消費していったのは、男性社会なのか?」って思っていた、なんとなくの薄らぼんやりした前提が、ある日「あ、絶対違う!」って直感した。「女は女に消費されてるんだ」って思ったんです。
(映画『へルタースケルター』公開直前! 監督 蜷川実花 単独インタビューより)
この発言は実に的を得ています。というのも、これはまさに監督自身が写真家として人気を得て、実際に体験してきたことだからです。ガーリーフォトブームの旗手として、つねに“女性的なかわいさ”を求められ、それにこたえ続けた蜷川実花。彼女が本作のメガホンを取る意義についても本人は「もともと岡崎さんの作品が好きで、『ヘルタースケルター』を撮るなら女性である私が絶対にやるべきだという確信みたいなものがありました」と自信をのぞかせていました。その意義は確かにあったと筆者も感じます。
しかし、『へルタースケルター』を蜷川実花が監督する意義が「彼女が女性だから」と言っていいのでしょうか?
たしかに興行成績を見ると、観客の割合は圧倒的に若い女性が多いとのことで、りりこや蜷川監督のスタイルに共感が寄せられたと考えられるでしょう。しかし、監督が『さくらん』を撮っている以上、やはり彼女が描き出す女性像は男性からの欲望を多分に含んだ視線にさらされる運命からは逃れられないのではないでしょうか。蜷川実花が描いた、本作の重要なテーマである「欲望の装置」、その本質とは一体なんなのでしょうか。
窓が塗り潰された部屋、その意味とは?
蜷川実花の写真は原色を多用した刺激的な作風で知られています。その徹底した色彩感覚は映画においても発揮されており、彼女が手がける美術やセットもやはり写真と同様、作家の美学が前面に押し出されています。
もちろん『ヘルタースケルター』における美術も例外ではなく、なかでも監督がもっともこだわったセットが、自身の私物も持ち込んで作られたという主人公りりこの部屋です。

「女の子が思い描く理想の部屋をつくってみたかった」との監督の言葉どおり、全体にわたってポップな小物が所狭しと並べられ、まるでひとつの生態系を形作っているかのようです。ひと際目を引くのが、空をバックに微笑む真っ赤な唇がペイントされた窓です。窓の両脇にはカーテンも確認できますが、このペイントのため外の風景はまったくうかがい知ることができません。もちろん、外からもりりこの部屋の様子を知ることはできないでしょう。いわば、ここはりりこのために作られた「美の密室」なのです。
しかしなぜ外界を遮断するようなデザインにしたのでしょうか?
りりこが「目ん玉と爪と耳とアソコ以外は全部作りもの」な、全身整形美人であることをひた隠すための心のベールを表しているのでしょうか?それもあるかもしれません。しかし筆者は、この塗り潰された窓の本当の意味は別にあると感じます。
その理由をお話しする前に、今度はこちらをご覧ください。

この部屋は1985年に公開されたポール・シュレイダー監督の映画『ミシマ:ア・ライフ・イン・フォー・チャプターズ(原題:Mishima: A Life In Four Chapters)』に登場するセットです。アカデミー賞受賞経験もある世界的デザイナー、石岡瑛子がデザインを担当し、高い評価を得ました。
『ヘルタースケルター』のりりこ部屋も、このセットから大きな影響を受けていることがわかります。主な共通点は
1.窓がない(外の景色を見られる構造になっていない)
2.外界の存在が最初からなきものとされ、部屋自体が空間に独立して存在しているかのようなたたずまい
3.原色を基調とした鮮やかな内装
の3点が挙げられます。部屋の手前には男女とおぼしき二人組みが仲睦まじく座っている様子が確認でき、全体的になんとも淫靡な雰囲気が醸し出されています。男女の情事を連想させる個別に仕切られた狭い空間、実はこのテーマ、蜷川監督の一作目『さくらん』で舞台となった遊郭とコンセプトを同じくしているのです。そして『ヘルタースケルター』のりりこの部屋のデザインも、「閉ざされた淫靡な雰囲気の空間」というテーマは前作から地続きになっています。
つまりこれが蜷川実花の描き出す「欲望の装置」なのであり、その本質は「遊郭」なのです。
そうすると、窓が巨大な唇で塗り潰され、外界を遮断している部屋の意味もわかってきます。あのペイントは彼女の持つ美の真実を隠すための心の壁ではなく、外観の進入を拒絶し、非現実空間を演出するブラインドと考えるべきではないでしょうか。完全に閉ざされた狭い空間の中で、若い女性が客に自らの肉体をショーとして消費させる、ここに『さくらん』と『ヘルタースケルター』に共通した構造があります。
見せたいものを見せる
外界から隔離された部屋に押し込まれた欲望を装置として機能させる試みは、作品中だけでなく、映画を上映している映画館そのものをも巻き込むような仕掛けが用意されています。
本作が口コミで盛んに話題にのぼった背景に、やはり沢尻エリカという女優にラブシーンを演じさせた事実があることは無視できないでしょう。これまでスキャンダラスなゴシップを数多く振りまいてきた彼女の裸体は、あまり良い表現ではないかもしれませんが、ショービズ界としては格好のコンテンツであることに疑いの余地はありません。観客は男性、女性を問わず、『ヘルタースケルター』における沢尻エリカのラブシーンを批評的な目というよりは、純粋に彼女の肉体美を称える官能美的な、あるいは好奇の目でとらえていたのではないでしょうか。これこそ蜷川監督が仕掛けた、若い肉体をいたずらに消費させることを意図した「欲望の装置」的演出なのです。
観客の世俗的な欲望を刺激するもう一つの方法として、原作と決定的に異なっていたのが、りりこの整形前の写真が掲載された雑誌を映し出した点です。劇中で女子高生たちがりりこを話題にしていた際、この全身整形疑惑のシーンがもっとも彼女たちを熱狂的に描いていたことを覚えています。スキャンダラスな話題ほど知りたくなるのが人間の性であり、また消費されていくスピードも刹那的です。
そして整形前のりりこの姿を見たいという欲望は、この映画の観客がもっとも期待していたものでもあるのではないでしょうか。ポスターに書かれた「見たいものを、見せてあげる」のコピーを忠実に履行するかのように、美しく若い女性をひたすら消費させることで大衆の好奇心を満たそうという態度は、やはり『さくらん』を撮った彼女ならではのチャレンジであり、また監督が原作のテーマを非常に理解していることもうかがえます。見世物としての隔離された個室、それを映画館という舞台で再現することで、蜷川実花の仕掛けた「欲望の装置」は完成するのです。
まだある「欲望の装置」の演出
1.スマートフォン
蜷川監督は本作を撮る上で、90年代と現在の文化をうまく取り合わせることに気を配ったと語っています。特に女子高生たちが持つスーマトフォンがそれを象徴していたのではないでしょうか。雑誌やテレビが主要な情報源だった90年代から、よりはやく、個々人が情報を発信できるインターネット世代へ。浅田検事が語った「人は簡単にテレビや雑誌の中の人間を愛しはしない。15分もたてば忘れられてしまう」はアンディー・ウォーホルの「15分で誰でも有名になれる」をまさに裏に返したような見事なセリフです。情報技術の進歩が話題としてのゴシップ、そして有名人本人の寿命をますます短くしていることを的確に表しています。誰もが持ち歩くようになった小さな「欲望の装置」は、今日も限りなく消費者の好奇心を煽るコンテンツを与え、その多くが忘れられていきます。
2.渋谷の街並み
蜷川監督は現代の渋谷を、定点カメラを用いてせわしなく行き交う人や車の様子を早送りで映し出すことで表現しました。この手法が興味深いのは、ジオラマ風写真を撮る際のピントの使い方を映像に応用していて、まるで渋谷を箱庭であるかのように見せていた点です。小さな模型の中でたくさんの人々が供給過剰な情報に溺れているかのように錯覚させる撮影法も、渋谷全体を一つの欲望の装置として見立てていることがよくわかります。
非日常的な快楽。それは現実から隔離された空間でしか得ることができませんが、現在の日本ではそれをより効率的に提供しようとするあまり、消費空間をどんどん縮小させ、画一的で即物的な悦楽に身を置く人々がふえているのかもしれません。いたるところで量産されていく欲望の装置。それは動物的欲求のみが支配する監獄や阿片窟なのでしょうか。それともすべての苦痛から解き放たれた地上の理想郷なのでしょうか。